イスラエルの漏洩文書が示すパレスチナ人強制追放計画
「避難」は民族浄化の一段階
小田切 拓 早尾 貴紀|2024年1月31日4:56PM
イスラエルは、ガザのイスラム抵抗運動ハマスに対する報復の名の下に、ガザに猛攻撃をしかけている。ガザ地区北部の民間人らには南部への「避難」を呼びかけ、11月18日には南部でも地上戦を行なうと発表した。イスラエルの究極の目標とは何か? 内部文書を手がかりに迫る。
ガザ地区からパレスチナ人全員をエジプト側に「移送」(トランスファー)することをイスラエルが計画している。そうした内容を含む内部文書が漏洩して物議を醸している。書類の作成元はイスラエル諜報省で、日付は今回のガザ集中攻撃を開始してから6日後の2023年10月13日。あくまで今後のガザ地区政策について複数の方向性を比較検討した資料にすぎない、としたものの、イスラエル政府は、公式ロゴも入ったその書類が本物であると認めた。
イスラエル軍はガザ地区全域で、住宅・商店・病院・学校や、電気・水道・通信のインフラを爆撃した上で、北部ガザ市とその周辺の難民キャンプでは、実質的に、住民の一掃につながりかねない作戦を展開した。一帯を完全に包囲し、全住民に対し南部への避難を促したのだ。その何十万人という避難者の徒歩での移動は、1948年のイスラエル建国に伴うパレスチナ人の難民化「ナクバ」(破滅)の姿を彷彿とさせた。
避難者の行く先についても詳述されている。エジプトが「可能な貢献」として「(エジプト国内の)シナイ半島の指定地域に集められた住民をただちに受け入れ」、そこに「安全保障上の包囲網を設置する」と明記されている。同文書は、今後イスラエルが時間をかけて実現を図るであろう「人口切り離し」の、第1段階の手法や到達目標を具体的に示唆している。
帰還する望みを断つ
「ガザの民間人に関する政策方針の選択肢(要旨)」という名の10ページの内部文書は、軍事行動終了後のガザ地区民間人をどう扱い、どう治めるのかを提示している。選択肢にはA、B、Cの3案がある。A、Bの2案は「住民がガザに残留」する場合で、AはPA(ヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治政府)に、Bは「新たなアラブ人当局」に、「統治」させる案だが、冒頭で挙げながらこの2案については消極的だ。そしてC「ガザからシナイ半島へ避難させる」案を、イスラエルに「肯定的かつ長期的な戦略上の結果」をもたらし、かつ「実行可能な政策」だと強く推奨する。
C案「ガザからシナイ半島へ避難させる」は、アメリカやEU(欧州連合)、周辺諸国をどう動かし、何をさせるのかまで提示している。
たとえばエジプトに対しては、キャンプ地の設定をさせるだけではない。欧米に圧力をかけて避難民への対応に「責任」を負わせ、「ガザ地区南部の検問」を開くように促す。もちろん、危機的経済状況にある同国への経済援助が盛り込まれている。
10月21日にカイロで開催された平和サミット等でエジプト大統領は、「ガザ住民のシナイ半島への退避」拒絶を訴えた。これがイスラエルによる「移送」計画を理解しての抵抗だと考えると、腑に落ちる。
大手広告代理店を使っての、ガザ住民に向けた「特別のキャンペーン」まで計画。イスラエルが間もなく占拠する地域に「帰還する望みがないこと」を強調するために、「ハマス指導のせいで」神が土地を失わしめ、「他の土地へ向かう以外に選択肢はない」と訴える計画だ。サウジアラビアには、住民を「他国に再移住」させるための財政支援のほか、「ハマスが引き起こした」と印象づける情報活動への資金捻出を求める。
同文書では、ハマスによる攻撃の多大なダメージを「西欧全体における抑止力の損失」と定義している。イスラエルが明確な勝利を収めれば、アメリカ政治と連動することで、「世界のリーダー」として、また「危機解決の鍵を握る国家」という地位を得られるというシナリオだ。イスラエルが《ハマスとの戦争》そのもの以上に、《戦争》から得られる広範囲にわたる結果を重視していることを、同文書は如実に語っている。
要約すれば、「移送の実現」およびその実行への「国際社会の賛同と参加」となる。さらにそれが「ガザのため」という考えを当然視させるために、イスラエル自身が、国際社会を牽引する「西側社会の中心国」になることまで念頭に入れているのだ。
実際の軍事行動の進展も、同文書で計画された形とほぼ同じだ。南部への「退避」勧告、「空爆」、「北部や境界沿いの地域への段階的な地上侵攻」、そして「地下壕の一掃」などが、段階順に、端的に提案されている。
また第二次世界大戦後のドイツや日本を例にあげ、住民を徹底して「穏健化」「反ハマス」にする必要性を強調している。
移送プランの始まり
同文書では、「人道的措置」の体裁を取り繕ってか「避難」とされている「移送」は、今に始まったことではない。ユダヤ人国家建設運動の本格化する1917年のバルフォア宣言(英国がパレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土建設支持を伝達)の頃から、シオニズムの実現において不可欠とされてきたのが、パレスチナ人の最少化だ。その実態が「強制追放」でも、状況のみを表現する「移送」という用語が使われてきた。
「移送」と同様に不可欠なのが、ユダヤ人のパレスチナへの流入および定住(入植)だ。パレスチナ人口の最少化と同時に、ユダヤ人口の増加を行なうことで、ユダヤ人国家の実現が進められてきた。
イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』によると、20年ごろのシオニズム運動の指導者層は、原則的にオスマン帝国から英国が手に入れたパレスチナの「全土」をユダヤ人国家として得ようと構想していた。37年にピール委員会による最初の領土分割案(ユダヤ人に15%の土地)が出されると、シオニズム運動の最高権力者ダヴィド・ベングリオン(後のイスラエル初代首相)は、それを踏み台にした。パレスチナ全土の80%の土地を獲得し、そのユダヤ人が人口比で80%を占めるようにすることを目標とすると明言し、「最大限の土地に、最小限のアラブ人を」をスローガンとした。「100%の土地に100%のユダヤ人」が究極の理想だが、そのためには先住パレスチナ人(ユダヤ教徒を除く)を全員追放することとなる。ベングリオンは、シオニストの当時の力量および国際関係からそれは即座には不可能と判断したのだ。パペによると、ベングリオンは「武力と機会」を信条としており、武力でユダヤ人国家を実行する歴史的機会を長期的に待つ指導者であった。
その決定的な機会が訪れる。一般には47年の国連パレスチナ分割決議で与えられた56%の土地をシオニスト側は受け入れ、アラブ側が拒絶して戦争を仕掛けて第一次中東戦争に敗北した、と説明されるが、そうとはいえない。パレスチナ分割決議を梃子として、ベングリオンは、目標とする80%の土地を確実にしようとした。依然ユダヤ人の移住が進んでいなかったヨルダン川西岸地区に当たる(イギリス委任統治下のパレスチナの面積の)20%については、戦争勃発前にヨルダン国王と密約を結び、80%のラインでの停戦で妥協をしていた。
「移送」については、その土地から大半のパレスチナ人を組織的・軍事的に追放する計画を開始した。エルサレム郊外のデイル・ヤシン村で虐殺や破壊を実践し脅威を煽り、ほとんどのパレスチナ人がその80%の土地から「避難」するように仕向けた。こうした追放作戦の最中の48年にイスラエルは建国宣言、直後に第一次中東戦争が勃発した。49年に休戦するまでに90万人前後と推計されるパレスチナ人が一時避難をしたが、建国されたイスラエルが国境を閉ざし帰還を拒否したために「難民」となった。休戦時点でのイスラエル領はパレスチナ全土の78%となり、そこにおけるユダヤ人の人口比は85%以上となった。ベングリオンの狙い通りになったのだ。
なお狭隘なガザ地区には、この時に膨大な難民が流入した。現在、住民の8割が難民という構造の原型が形成された。また、地区住民の「移送」、もしくは土地ごと分離される最初の対象となる運命が決定づけられた。
次なる入植と移送
1967年の第三次中東戦争で、ヨルダン川西岸地区とガザ地区もイスラエルの軍事占領下に置かれた。その直後から、占領地へのユダヤ人の移住(入植)が開始された。いったん78%の土地で妥協したイスラエルは、再度それを100%に引き上げる過程に入る機会を得たのだ。
占領下では、パレスチナ人による政治・経済・文化活動は著しく制限され、パレスチナ人が共同体として自立する可能性が阻まれた。イスラエルでの単純、低賃金労働以外の就労機会が少なかったために、経済的にイスラエルの下部に組み入れられる、つまりイスラエルが経済的にコントロール可能な構造が確立した。
93年のオスロ合意以降も占領体制は継続、さらに強化されたが、イスラエルに代わって、国際援助がパレスチナ人に就労機会を提供し、経済的にコントロールする形に変化した。紙幅の関係で、占領への反発としての第一次インティファーダ(87年)と、それを受けた新しい占領システムといえるオスロ体制の実像については、過去の本誌記事(小田切1月20日号・9月8日号、早尾10月20日号)等を参照されたい。
2000年に始まった第二次インティファーダの最中にイスラエルは、これを徹底弾圧する一方で、新しい占領の仕組みへと移行する。西岸地区では、02年から隔離壁の建設が開始された。これは、同地のパレスチナ人の人口密集地を囲むように設置されたユダヤ人専用道路網と連動することで、西岸のパレスチナの主要な街を封鎖された隔離空間に置く装置となった。もちろん人や物の流れをも管理する。
1990年代のガザ地区で進められた同地区の壁による囲い込み、および地区内の移動の遮断という政策が、西岸地区で応用された形だ。現在、西岸地区は無数の「ガザ地区」が存在した状態にある。そして西岸地区の60%以上の面積に当たるオスロ合意の定めたイスラエル政府管轄地(入植地を含む)は、隔離壁やユダヤ人専用道路で境界をより強化され、実質的にイスラエルの準領土となった。
ガザ地区は、本格的な分離段階に入っていたと考えられる。「ガザ撤退」と称される05年にイスラエルが行なった同地区内の軍基地およびユダヤ人入植地の撤去は、イスラエルが主張する「ガザ占領の終了」とは真逆のものだ。陸・海・空のすべての境界を外側から封鎖した上で、占領者の責務である同地区での社会生活の維持を一方的に放棄し、ガザ地区への物資搬入(支援食糧でさえも)もイスラエルの厳格な管理下に置いた。現在に至るまで国連関係機関もこの体制下で、イスラエルの意向に従う形で支援を実行している。国際社会は、イスラエルによる新占領体制を強く下支えしているのだ。
一貫する行動原理で
ガザ地区研究者のサラ・ロイはその浩瀚な研究書『ガザ回廊』の増補第3版(16年)において、占領下で進められていた「反開発de-development」(成長の遅い低開発ではなく経済基盤そのものを無化すること)の段階を過ぎて、イスラエルはガザ地区を「生存不可能unviable」な状態に置くようになったと分析している。
ここで06年に誕生したハマス自治政府およびその武装抵抗は本質的な問題ではない。すでにその前、第二次インティファーダを契機として封鎖とインフラ破壊という集団懲罰への政策転換をイスラエルは進めていた。「最大面積」と「最少パレスチナ人口」を実現するためには、パレスチナ人口の「移送」は外せない措置だ。このシオニズムに一貫する行動原理は、形を変えながら常に実行されてきた。イスラエルは、ガザ地区への軍事力行使を行ないながら、同時に「移送」を究極の目標とする戦略を実施している。ハマスの台頭は、政策を正当化する上で好都合であったとも言える。
ガザ地区全体が「生存不可能」となった状態で、極端な支援物資の搬入制限と、さらにガザ地区北部から南部への住民避難の強要は、上記の内部文書が示すように、人口のガザ地区からの追放を念頭に置いたもの以外には考えにくい。すでに国連世界食糧計画(WFP)が南部のエジプト国境の開放によるガザ住民の避難を要請している。「人道支援」の名の下に、ガザ地区住民の域外への避難が国際社会の承認や費用負担で進められれば、まさにイスラエルの狙い通りだ。
ガザ地区から出たが最後、イスラエルはもう帰還は認めないだろう。そしてガザ地区とは、常に西岸地区の先行事例であった。次は西岸が、同じ手法で標的になる。
(『週刊金曜日』2023年11月24日号)