「ガザの抵抗」「ガザの反撃」が意味するもの
パレスチナ収奪の歴史を見ない戦局談議はイスラエルへの同化だ
早尾 貴紀|2024年1月31日5:30PM
パレスチナ・ガザのイスラム抵抗運動「ハマース」がイスラエルに対し、近年にない激しい「反撃」作戦に出た。イスラエル側は「テロリストによるテロ行為」とし「戦争」を宣言。10月13日、記者会見したイスラエル駐日大使は、本誌記者が2000年代に現地で目撃してきたイスラエル側の国際法違反行為や非戦闘員の殺戮を「事実と違う」と全面否定した。パレスチナ問題を研究してきた早尾貴紀・東京経済大学教授に解説してもらった。
10月7日の朝、パレスチナ自治区のガザ地区から、ハマースの軍事部門およびイスラム聖戦などの武装組織が、2000発以上のロケット弾をイスラエル側に発射するとともに、ガザ地区を包囲する壁やフェンスを複数箇所で突破し、1000人以上とみられる戦闘員がイスラエル領内に侵入した。
ロケット攻撃や、壁をかい潜っての侵入は、これまでもあったが、今回は、ロケット弾が射程距離と破壊力を増し、かつ同時に多数発射されることで、イスラエルの防空システム「アイアン・ドーム」を潜り抜け、首都テルアヴィヴも含む市街地に着弾した。
戦闘員の侵入については境界に設置されたイスラエル軍の検問所を攻撃したり、フェンス部分を破壊したり、パラグライダーで壁を越えたりすることで多数の戦闘員が組織的にイスラエル側に侵入するという未曽有の同時多発攻撃となった。
これによって、イスラエル兵およびイスラエル市民に約1300人以上の死者(数十人の外国人観光客・労働者も含む)を出したうえに、100人以上のイスラエル兵や市民、外国人が武装組織によってガザ地区内に拉致され、捕虜となった。
今始まったのではない
イスラエル側の被害としては1973年の第4次中東戦争以来の犠牲者ともいわれるが、しかし、アラブ諸国の正規軍との戦争とは異なり、パレスチナ内部の抵抗運動による被害としては過去に比類のない規模となっている。
イスラエル側は、その後連日、ガザ地区へ「報復」の空爆を大規模に行ない、パレスチナの市民および武装組織に2300人以上の死者(10月15日現在)が出ているほか、イスラエル側に侵入した戦闘員約1500人を殺害したとイスラエル軍が伝えている。それも加えるとパレスチナ側の死者数は現時点で約3800人だが、空爆継続のほかに、陸上侵攻によって武装勢力の拠点を徹底的に破壊することを明言しているため、パレスチナ側の被害はまだ序の口でこれから数倍に達することが懸念されている。
人口密度が高い上に狭隘で封鎖されたガザ地区では避難できる場所などどこにもない。いかなる戦闘でも被害者のほとんどは一般市民となることは常に避けられないのは自明だ。
さてこの事態を受けて、欧米日本の各国は「ハマース非難」の声明を相次いで発表し、主流メディアやウェブメディアでは、「ハマースの残虐な奇襲が悪い。イスラエルの報復は当然」といった論調が圧倒的に多くを占めた。イスラエルによるガザ地区への封鎖と無差別空爆を批判するにしても、「先に仕掛けて市民を標的にしたハマースも悪いのだが」と枕詞を置き、両論併記・両成敗のような表現が溢れている。
しかし、10月7日の朝に「紛争」が急に勃発したわけではない。発端をそこに見ることは、すでに積み重ねられてきたイスラエルによるパレスチナの軍事占領とガザ封鎖と大規模虐殺を隠蔽するに等しいことになる。とりわけガザ地区はイスラエルの占領政策のもとで、すでに「極限状態」あるいは「崩壊過程」にあったのだから、もし今回の「奇襲」を本当に理解したいのであれば、そこに至る歴史を正確に見なければならない。
大きく二つの事柄に整理してみる。一つは「そもそもガザ地区とは何か」。もう一つは、「ハマースとはどういう組織でなぜガザ地区にいるのか」だ。
ガザ地区とは何か?
そもそもガザ地区は不自然な成り立ちと形状をしている。47年の国連分割決議は、パレスチナの土地をユダヤ人国家とアラブ人国家に二分することを提案したが、その線引きではアラブ側に属すべき土地は北部ガリラヤとヨルダン川西岸とガザも含む南部の三つのブロックがギリギリ連結することで領土的一体性を保たせられている形状であった。
しかし、ヨーロッパ列強によるユダヤ人迫害の尻拭いで領土割譲を迫られるアラブ側と、エルサレムがアラブ側の内部で国際管理地となった面積配分に不満なユダヤ側の双方が戦争(第1次中東戦争:47―49年)になり、ユダヤ人側(48年にイスラエル建国)が軍事的に圧倒、分割決議の線を大幅に超過して領土を手に入れた。この時に切り縮められて小さく取り残されたのが現在のガザ地区なのだ。
その狭隘なガザ地区には、イスラエル領に奪われた周辺地域から、追放されたパレスチナ難民が大量に流入し、大規模な難民キャンプを形成して現在に至っている。密集したガザ地区住人の実に70%が、イスラエル領内に故郷を持ち、そこへの帰還権を有する難民とその子孫である。それゆえ、あの小さな地区に大量の難民が集住するという不自然な状態が生じたのだ。すなわち、ガザ地区は、イスラエル建国の副産物としての成立過程からして、地区全体が難民キャンプ的な存在であるという点は、重要な原点である。
さらに67年の第3次中東戦争によってガザ地区も西岸地区も、イスラエルによって軍事占領下に置かれ、陸海空の境界を管理されている。すなわち、元の故郷の収奪者がさらに難民となった先の占領者になったというかたちだ。占領者たちが自分たちのすぐ目と鼻の先で、土地や水などあらゆる資源を自由に使い豊かな生活を享受しているのを、ガザ地区の難民たちが半世紀もの間どのような思いで見ていたのかという視点を、イスラエル人はもちろん世界中の人々が忘れてしまっている。
そして93年のオスロ合意に始まる和平プロセスは、名目的にパレスチナに「自治」を与えるものであったが、難民の帰還権にも国境管理にも一切触れることなく、実際にはガザ地区の包囲と無力化が進められた。自治の名の下にイスラエルは責任を逃れつつ、一切の独立国家的要素は剥奪されたままなので、ガザ地区はイスラエルおよび国際社会への依存・従属を深めさせられたのである。
ハマースは過激派なのか?
ハマースとはアラビア語で「イスラム抵抗運動」の略称で、87年の第1次インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)時から、ヤーセル・アラファートが設立した世俗的(非宗教的)な政党ファタハとはライバル関係にあった。むしろファタハを軸にパレスチナ解放機構(PLO)が結集していたのに対抗するハマースを、イスラエルがパレスチナ社会の分断工作として支援していた時期さえもあった。
しかし、オスロ合意でPLOがイスラエルを承認して自らは「自治政府」となると、ハマースはこのオスロ和平が「欺瞞である」と批判する対立姿勢を鮮明にした。和平や自治と謳っていながら、難民帰還権・国境管理のみならず東エルサレム、入植地、水利権など何ひとつ核心的な問題に前進がなかったからだ。
このオスロ和平体制への大衆的不満が、2000年からの第2次インティファーダで噴出し、この鎮圧にイスラエルは数年を要した。が、その間にパレスチナの民衆的支持は、占領の代理機関のように成り下がったファタハ・PLOからハマースへと移っていき、06年のパレスチナ議会選挙でとうとうハマースが西岸・ガザの両地区でファタハに勝利し、自治政府に「ハマース政権」が誕生したのだった。
ところが、反オスロ体制のハマース政権をイスラエルや欧米日本は承認せず、またハマースとファタハとの連立政権さえも認めず、それどころかイスラエルと米国はファタハに武器・弾薬を公然と提供してハマースとの内戦を煽りながら、イスラエルはハマースの議員や活動家を逮捕・収監したり、ガザ地区へ追放したりした。
オスロ体制の批判封じ
この内戦の結果、07年には西岸地区はイスラエルに支援されたファタハが選挙結果を覆して自治政府を維持し、ガザ地区に押し込められたハマースが同地区内だけは掌握してハマース政権を樹立した。こうしてパレスチナに二つの内閣、2人の首相が誕生するという異常事態となった。大手メディアは「ガザ地区を実効支配するハマース」と表現するが、実際には「西岸地区を武力クーデターによって実効支配するファタハ」というのが正確だ。
こうしてイスラエルは、ガザ地区に閉じ込められたハマース政権を「抵抗への見せしめ」のごとく容赦なく軍事的攻撃の対象としながら、その圧力でもって西岸のファタハ自治政府を骨抜きにしていっそう従属させた。イスラエルの支援で選挙結果を覆して西岸統治を続けさせてもらっているという「負い目」に加えて、反抗したらガザ地区のような痛い目にあうぞという明白な脅迫を受けているからだ。
07年以降、イスラエルによるガザ地区の封鎖と攻撃は継続し激化した。なかにはひと月ほどの軍事作戦で1000人や2000人という死者が出るほど過酷であり、08年から23年8月末までにイスラエルに殺害されたパレスチナ人約6400人のうちガザ地区だけで約5000人を占めているように、ガザ地区への弾圧は突出している。そして封鎖にともなう失業率や貧困率の高さと衛生・医療の貧弱さは危機的な水準に達している。ガザ地区は、48年、67年、93年、07年と段階を経て、政策的に弱体化させられ人間性を剥奪され、生存基盤を根底から破壊されてきたのだ。
ただし、イスラエルの占領政策の最大の目的は西岸地区の従属化(ひいては領土化)であり、ガザ地区はそのための梃子である。西岸で入植活動および資源収奪を日常的・効率的に行ないながら、それを世界の目から隠蔽するために、ガザ地区での「紛争」が演出される。オスロ体制を批判するハマースは、ガザ地区での封鎖と暴力だけでなく、近年加速化している東エルサレム・西岸地区の収奪や破壊による従属化にも警告を発し続けていた。今回の大規模な奇襲は、オスロ批判を掲げてハマース政権が誕生して以降に激化してきた、パレスチナ全体への理不尽な弾圧に対する鬱屈の蓄積の結果である。
マスメディアでは「なぜ奇襲を察知できなかったのか」「ハマースは民衆にではなく武器に金を使っている」「ハマースの背後にイランがいるのでは」「奇襲がいかに市民を犠牲にする残虐なものか」「イスラエルの空爆がどれくらいの規模で陸上侵攻がいつか」といった議論が盛んに交わされているが、前記の歴史的展開を踏まえない戦局の論評はすべて、無駄なおしゃべりか、そうでなければ無意識なイスラエルへの同化にすぎない。
(『週刊金曜日』2023年10月20日号)