京都府知事による公費での大嘗祭参列は政教分離原則に反しない
京都地裁で判決
平野次郎・フリーライター|2024年3月11日7:42PM
令和の皇位継承に伴う2019年の大嘗祭の一連の儀式に京都府の西脇隆俊知事らが公費で参列したのは憲法が規定する政教分離原則に反する違法な支出だとして、同府民ら12人が西脇知事に公金約37万円の返還を求めた住民訴訟(本誌の昨年10月13日号で詳報)の判決が2月7日、京都地裁(植田智彦裁判長)であった。判決は「天皇に対する社会的儀礼を尽くすという世俗的なもの」として、政教分離原則に反しないと判断。原告の請求を棄却した。
西脇知事や府職員は19年9月、京都府南丹市で行なわれた新米を収穫する「主基田抜穂の儀」や、同年11月に東京の皇居で催された「大嘗宮の儀」の「主基田供饌の儀」などの諸儀式に公費で参列した。原告側は「新天皇が新穀を天照大神と共食することで神となる宗教儀式への参列は、憲法の政教分離原則や国民主権原理に違反する」などと主張していた。
裁判で原告側は政教分離原則の新たな視点として「天皇の宗教儀式は社会一般の宗教儀式とは異なり、厳密に皇室の私的領域にとどめられるべきもので、それに国や自治体は一切関わってはならない」などと主張。天皇の宗教儀式との関わりを判断するのに、社会一般の宗教活動との関わり合いで判断する基準として1977年に津地鎮祭訴訟の最高裁大法廷判決が示した「目的効果基準」を適用するのは誤りだと指摘した。
だが判決は、原告側の主張する新たな視点を「(憲法の)解釈論として傾聴に値すべきもの」と評価しつつも「憲法上それが定められていると解釈することはできない」と断定。そのうえで知事らの大嘗祭参列については「天皇の即位に伴う皇室の伝統儀式に際し、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇に対する社会的儀礼を尽くすという世俗的なものであり、その効果も、特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるようなものではない」と目的効果論を適用することで政教分離原則違反を否定した。
東京でも1月に原告敗訴
令和の皇位継承をめぐっては、もう一つの判決が1月31日に東京であった。即位の礼や大嘗祭への国費の支出は政教分離原則違反であり信教の自由などを侵害されたとして、全国の宗教関係者や大学教員など317人が国に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁(中島崇裁判長)は政教分離原則が「私人に対して信教の自由そのものを直接保障するものではなく」、国の行為がそれに違反しているとしても原告らの権利や利害の侵害はないとして請求を棄却。違反の有無については判断しなかった。
では平成の大嘗祭(1990年)などへの国や地方自治体の関わりについて違憲性を問うた訴訟は、どんな経緯をたどったのか。
大嘗祭などに政府が国費の支出を決めたことへの差し止めなどを求めて提起された訴訟で大阪高裁は95年、大嘗祭が神道儀式としての性格を有することは明白であり「(憲法の)政教分離規定に違反するのではないかとの疑義は一概には否定できない」とする判断を示し、この判決が確定した。
だがその後、大嘗祭などの儀式に知事が公費で参列したことに対して公金の返済などを求めた訴訟(大分、鹿児島、東京、横浜の4地裁で提訴)では最高裁小法廷が2002~05年にかけて、いずれも目的効果論を適用し、政教分離原則に違反せず合憲だとの判断を示している。
今回の京都地裁判決後に原告側が開いた報告集会で、弁護団から「平成の大嘗祭についての四つの最高裁判決と同じだ。お付き合いの範囲で問題ないと言い切った」「請求棄却の結論へと導く理由として、社会的儀礼という言葉を多用した不当判決だ」などの批判が相次いだ。諸富健弁護士は「旧統一教会問題のように政治が宗教と結びつくことが現実に起きている中で、政教分離原則を曖昧にしておくことを許すと、国家と宗教が簡単に結びついてしまう。これを厳格に分けないのは政治のあり方として危惧される」と発言。原告側は2月20日に控訴した。
(『週刊金曜日』2024年3月1日号)