「島田事件」死刑判決、再審無罪の赤堀政夫さん死去
粟野仁雄・ジャーナリスト|2024年3月28日7:18PM
1970年代から80年代にかけて確定死刑囚が再審で無罪となったいわゆる「四大死刑冤罪事件」の中で最後の事例となった「島田事件」の元死刑囚・赤堀政夫さん(94歳)が2月22日、名古屋市内で亡くなった。他の3事件(免田事件、財田川事件、松山事件)も含めて、これで雪冤を果たした元死刑囚はすべて鬼籍に入った。
54年3月、静岡県島田市で当時6歳だった幼稚園女児が行方不明となった後、市内を流れる大井川の近くで遺体が発見された。同年5月、静岡県警は当時25歳だった赤堀さんを、職務質問しただけで法的根拠もないまま島田警察署に身柄拘束した。
赤堀さんには精神疾患があり、その時点で過去に自殺未遂や二度の窃盗事案を起こしていたほか、前年には刑務所を出所したばかりだった。県警は窃盗など別件容疑で赤堀さんを逮捕し、拷問により「性犯罪目的で誘拐して首を絞めて殺した」とする供述調書を作成。これに対して赤堀さんは静岡地裁での公判で「警察の拷問で虚偽の供述をさせられた。自分はこの事件にいかなる関与もしていない。無実である」と完全否認したが、地裁に殺害方法などの鑑定を依頼された古畑種基・東京大学教授は「強かんされ、胸部を打撲し、首を絞められた」「石で胸を殴打して首を絞めた」と供述調書と一致する鑑定書を提出。同地裁は58年5月に「被告人の公判証言は信用性がない」と赤堀さんに死刑判決を言い渡し、60年2月に東京高裁は控訴を棄却。同年12月に最高裁は上告棄却して判決が確定した。
赤堀さんは翌年から四度にわたり再審請求。静岡地裁はことごとくそれらを退けたが、77年3月の第4次再審請求の棄却後に弁護団が即時抗告したのを受けた東京高裁は83年5月、審理を静岡地裁に差し戻す決定をした。
86年5月、静岡地裁は被害者の胸の傷についての鑑定結果などを基に「赤堀さんの自白の信用性に疑問がある」とし刑の執行停止と再審開始を決定。検察側の即時抗告が棄却されたことで再審が始まった。計12回に及んだ再審公判では同地検が有罪立証のうえ死刑を求刑したものの静岡地裁はこれを退け、89年1月に無罪判決を言い渡し、地検も控訴を断念。この時点で静岡刑務所にいた赤堀さんは釈放され、逮捕以来34年8カ月ぶりに自由の身となった。
「袴田事件」などの支援も
70年代の終わり頃から赤堀さんを支援していた山崎俊樹さん(70歳/袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会事務局長)は、赤堀さんが仙台の拘置所に収監されていた当時の思い出として「面会は比較的自由にできましたが、赤堀さんにまったく歯がなかったことに驚きました」と証言する。本人も釈放後に当時の状況について、「刑務官が独房に入ってきて『今から死刑を執行する』と言われた。恐怖で髪が真っ白になったが、彼はすぐ『あっ、間違えた』と言って出て行った」と語ったという。山崎さんは「そんなことがあるのかと思いましたが、赤堀さんは軽度の知的障害もあり、嘘が言える人ではない」と振り返る。
山崎さんは主任弁護人だった故・鈴木信雄弁護士より聞いた話として、面会した拘置所で赤堀さんに「こんなところに来ている場合じゃないでしょ。犯人が遠くに逃げてしまう」と追い返されたとの逸話も紹介した。鈴木弁護士はこれで無実を確信したという。
再審無罪で釈放後の赤堀さんは体調を崩し入院したが、回復後は同じ静岡県の「袴田事件」の袴田巖さん(88歳)、三重県「名張毒ぶどう酒事件」の故・奥西勝さん(2015年に89歳で死去)の裁判支援を行なっていた。巖さんの姉の袴田ひで子さん(91歳)は「赤堀さんのお兄さんと一緒に救援行動もしました。赤堀さんは釈放から間もない頃ウチに寄ってくださり5月の浜松まつりを一緒に楽しんだこともあります。釈放された巖にも会いに来ていただきました」と感謝する。筆者が3年ほど前、巖さんの支援集会で見た赤堀さんは90歳を過ぎてなお、意志の強そうな眼光が印象的だった。
(『週刊金曜日』2024年3月15日号)