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国家という怪物相手に違憲訴訟に素手で挑む(上) 婚外子差別の根絶求める富澤由子の闘い 

室田 康子・ジャーナリスト。元『朝日新聞』、『朝日ジャーナル』記者|2024年8月1日6:26PM


富澤由子、73歳。二つの違憲・国家賠償請求裁判を、弁護士を立てない本人訴訟で闘っている。事実婚で子どもの出生届を出すときに味わった根深い「婚外子」差別、そして相続裁判で生来の姓を使えなかった「私の苦痛」――自らの結婚、出産、相続での体験をもとに、国と司法に変革を迫る。人生の後半に想像を絶する労力と時間をかけ、本人訴訟に同時並行で挑んだ。この闘い方を、富澤はなぜ選んだのか。


 3月21日、東京地裁。富澤由子は春らしいベージュの服で現れた。「国に文句をつけているけど、穏やかな印象をもってもらえたらと思って」。南洋の花に囲まれて燃えるろうそくの絵も持ってきた。原画は「原爆の図」や「沖縄戦の図」で知られる画家丸木俊がパラオで描いたもので、出産の陣痛のときも、女性たちと運動を始めたときも、傍に置いて支えにした。持参したのは拡大コピー版だ。

本人尋問の日は、これまで婚外子差別の違憲裁判をして悔しい思いをした元原告の山田満枝、菅原和之も傍聴にかけつけた。3月21日、東京地裁前で。富澤は右から3人目。(撮影/室田康子)

声をあげて道を開く

 この日は、出生届で「嫡出子」か「嫡出でない子」かを書かせる戸籍法の規定は法の下の平等を定めた憲法14条などに違反していると訴える「差別しない権利・差別なく生む権利訴訟」での本人尋問の日だ。裁判官や国側代理人に直接思いを伝えられる最初で最後の機会。裁判長は「富澤さん」と彼女が望む生来の姓で呼びかけ、富澤は静かな声で語り続ける。

「40年訴え続けても国連から繰り返し勧告されても、この国は変わらない。女性の出産を選別し、婚姻届を出さずに産んだ母と子を蔑視し差別し続ける社会でよいのかを司法に問いかけています」

 1950年、東京で3人姉妹の末っ子として生まれた富澤は黒いランドセルを買ってもらって喜び、間違っていると思うと迷わず先生を質す小学生だった。高校生になると、男女で体育の種目が違うのはおかしいと訴え、女子もサッカーと剣道ができるようになった。短大卒業後、特殊法人(当時)のアジア経済研究所に就職。広報や機関誌編集の仕事をするかたわら組合運動に携わった。研究所が職員採用で「男子に限る」と条件をつけたときは、憲法学者で社会党の衆議院議員だった土井たか子を巻き込み、朝日新聞記者の松井やよりが報道して、「男女募集」と変えることができた。このときの体験が、その後の富澤の行動理念をつくったといえる。

 80年代初頭、労働運動を通じて別の政府系機関で働いていた藤田成吉(79歳)と出会う。互いの姓を尊重すること、共同で家事や育児をすることを約束し、婚姻届を出さない事実婚をした。双方の両親は理解して喜んでくれたが、富澤の2人の姉とその夫たちは「婚姻届を出さないなんて、家の恥だ」と絶縁状態になった。

息子の出生届が不受理

 83年に望んでいた妊娠が分かったとき、「男だったら藤田、女だったら富澤の姓に」と申し合わせた。生まれてきたのは男の子。2人で出生証明書を携え、出産に立ち会ってくれた友人2人を伴って東京・杉並区役所に出生届を出しにいった。届には父親の姓で子どもの氏名を書き、父親欄に藤田の名前を書いた。届出人も藤田で「父」にチェックを入れた。「父母との続き柄」欄にある「嫡出子」「嫡出でない子」はどちらもチェックせず空欄のままにした。

「生まれてきた子が嫡出かそうでないかの選別を親に強制するなど人権侵害そのものだと思った。自分の子は嫡出子だから『正統』でよかった思うことも差別につながっていく」と富澤はいう。

 区役所は東京法務局に伺いを立てたが、出生届は不受理。法務局長の指示書には「(結婚していない母親から生まれた子には父親がいないはずだから)父の欄に名前を書いたり、届出人になったりすることはできない。子どもが藤田を名乗ることもできない」との趣旨が書かれていた。現に母と父がいて、証明してくれる人もいるのに、差別的で事実と違う記述をしなければ受理しないという硬直した姿勢に唖然とした。

 以後12年間、息子は戸籍も住民票もない状態に。乳幼児健診や予防接種の通知は届かず、そのたびに「特別願」を書く。小学校の就学通知も届かなかった。教育委員会の指示で学校に面接に行くと、教頭から藤田は「あなたは父親とはいえない」と言われ、息子の前で「この子は非嫡出子だね」という言葉を浴びせられた。PTA役員会で「戸籍も作らない酷い親の子が入ってくる」と流布され、息子は偏見に満ちた先入観の中で通学しなければならなかった。

差別撤廃に立ち上がる

 富澤は「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会(行動する女たちの会)」で家族法改正グループを作り、運動を始める。婚外子は相続分が婚内子の半分という民法や戸籍法の規定を変えたいと89年に「出生差別の法改正を求める女たちの会」を立ち上げた。手紙や電話の相談が毎日のようにきた。出産直後の女性に付き添って役所に行き、戸籍がなくても住民票を作るように掛け合って、子育て支援を受けられるようにしたこともあった。

「女にとってこどもはすべて嫡出子」と書いたシールを作り、続き柄欄に貼ろうと呼びかけた。「すべての子どもはどんな理由でも差別されない」とうたう子どもの権利条約が90年に発効。日本が批准すれば、国内法を整備しなければならない。民法・戸籍法改正の絶好の機会と精力的に国会議員を訪ね、説得を重ねた。

 91年、富澤は推されて杉並区議選に出て当選。社会党委員長になっていた土井たか子ブームで、女たちが次々と政治進出し「マドンナ旋風」と言われた頃。富澤は1人会派で3期12年務めた。多くの議題に取り組み、住民から相談があれば夜遅くでも飛び出していく。一方、藤田も職場で重責を担うようになり、残業続きで健康を害していた。「行かないでと泣く子を置き、私も泣きながら区議会などへ出て行きました。子どもが親を求めたときに私たちがそばにいてやれなかった。息子には本当に申し訳なかった……」と振り返る。

 94年に再び、杉並区役所に息子の出生届を提出。記入の内容は83年のときと同じだ。このときも区役所は東京法務局に伺いを立て、今度は1年3カ月待たされたのち受理された。83年と何が違ったのか。95年の法務局の指示内容を知りたくて杉並区長に対し自己情報開示請求をしたが認められなかった。請求を繰り返して、開示されたのは2022年。法務局の考え方は1983年も95年も同じ。なぜ83年に受理されなかったのかとの思いが募った。

 96年、法制審議会が選択的夫婦別姓制度導入と婚外子の相続差別撤廃の民法改正を答申。が、別姓反対派議員が阻止して法案は提出されなかった。富澤は婚外子差別の実態を伝えたいと、日本弁護士連合会に藤田と息子と3人で人権救済を申し立てた。日弁連の人権擁護委員会は翌年、出生届の「嫡出子」「嫡出でない子」の削除など戸籍法の改正を求める報告書をまとめ、法務大臣に要望書を提出した。しかし、改正にはつながらなかった。
(敬称略、下に続く)

(『週刊金曜日』2024年4月12日号を一部修正)

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