朝鮮人労働者らが今も海底に 「長生炭鉱」遺骨発掘、返還を
安田浩一・ジャーナリスト|2024年8月12日4:26PM
「坑口を開けよう!」
決意と覚悟を示すシュプレヒコールが周防灘に響き渡った。
7月15日、山口県宇部市の床波海岸で、戦時中の落盤事故により水没した炭鉱の遺骨発掘調査を実現させようと呼びかける集会が開かれた。
長生炭鉱──かつてこの場所に存在した海底炭鉱である。1914年に開坑し、終戦時まで操業を続けた。最盛期には1000人を超える労働者が働き、年間15万トンの石炭を産出した(※1)。
大惨事が発生したのは42年2月3日。日米開戦から2カ月後のことだ。沖合の坑道で落盤が発生し、海水が一気に流れ込んだ。逃げ場所はない。炭鉱労働者は瞬時にして真冬の冷たい海にのみ込まれた。犠牲者は183人。そのうち136人が朝鮮人労働者だった。犠牲者全体の7割を占める。
『宇部市史』では「長生炭鉱への朝鮮人強制連行と水没事故」と小見出しが付された以下の記述を見ることができる。
〈長生炭鉱は特に坑道が浅く、危険な海底炭鉱として知られ、日本人坑夫から恐れられたため朝鮮人坑夫が投入されることになった模様であり、その当時「朝鮮炭鉱」と蔑称された〉
「朝鮮炭鉱」なる呼称こそが当時の国策産業の実相を示していよう。戦時増産体制の下、安全より生産拡大が優先された。朝鮮人労働者は単なる労働力でしかなかった。事故以前にも幾度か坑内出水が確認され、事故が予見できたにもかかわらず、炭鉱側は何の対策もとっていなかった。
終戦と同時に炭鉱は閉鎖され、坑口も埋められた。遺体は引き上げられることもなく、今も海の底で眠ったままだ。
このままでいいのか。そうした思いを抱く地元住民は91年に「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」を結成。事故現場近くに追悼碑を建立し、毎年、追悼集会を開くと同時に、政府に対して遺骨収集を求めてきた。植民地主義と強制労働という“国家の責任”を問うてきたのである。
だが、直接交渉を重ねても国は動かない。海底坑道の調査も進めない。まったく何もしていないにもかかわらず、国は「技術的に(遺骨収集は)難しい」「実態が不明」との理由で、遺骨を海底に放置したままなのだ。
「その先は国の出番だ」
「もう待てない」
ついに「刻む会」は自ら坑口を開けることを宣言した。クラウドファンディング(※2)で資金を集め(目標額800万円)、10月には重機を投入して坑口付近を掘り起こすという。そのためのスタート集会でもあった。
「遺族の高齢化を考えると、残された時間は限られている。政府が動かないのであれば、まずは自分たちで開口しようと思ったのです。そのうえで政府に遺骨収集を要求していきたい」(「刻む会」井上洋子共同代表)
この日、追悼碑の建つ「追悼ひろば」には韓国から来日した遺族や支援者も含め約170人が参加した。集会では韓国遺族会を支援する崔鳳泰弁護士が「政府がやらないのであれば我々がやればいい。82年間、埋もれたままになっている遺骨を遺族のもとに返そう。犠牲者に『ようやく戦争は終わりました』と報告しよう」とあいさつした。
また、遺族に同行した韓国の元副総理・尹徳弘氏は私の取材に対し「国策として炭鉱事業を進め、朝鮮半島から労働者を徴用した日本は、遺骨を掘り出し、遺族に返す義務がある。国として、人としての道理を果たすべきだ。まずは日本の市民が先頭に立ってくれたことには最大限の感謝をしたい」と答えた。
集会後には参加者全員で、坑口があったと思われる場所で草むしりを行なった。10月にはその場所で開口工事が行なわれる。
地域の人々が動いた。日韓両国の市民が動いた。市民は自らの力で坑口を開ける。その先は国の出番だ。国策として炭鉱事業を進めた国は、その責任をしっかりと果たさねばならない。
※=『週刊金曜日』2024年3月22日号「長生炭鉱――慟哭の海底に今も」参照。
(『週刊金曜日』2024年7月26日号)