「模擬原爆」被弾地の“地獄”を伝える「平和祈願之碑」 富山市で犠牲者追悼慰霊式
藍原寛子・ジャーナリスト|2024年9月5日7:45PM
「模擬原爆」を語り継ぐ「いしぶみ」が富山にある。米軍は1945年7月20日から終戦直前の8月14日までに広島・長崎への原爆投下の練習弾として「模擬原爆・パンプキン爆弾」本土に49発を投下、400人以上が犠牲になった。
このうち、富山市豊田本町には犠牲者の遺族が自費で建立した「平和祈願之碑」がある。当地で犠牲になった鈴木善作さん、レツさん夫妻ら住民16人を悼み、善作さんの息子である故・善蔵さんが88年、着弾地から数十メートルの所有地に退職金を元手に建立。内部には爆弾の破片と防空頭巾が収められた。以来、毎年身内だけで追悼していたが、5年ほど前からは犠牲者追悼慰霊式を執り行なうようになり、今年も同碑前で7月26日に開催。遺族、地域住民らのほか「富山大空襲を考える会」の僧侶や「富山大空襲を語り継ぐ会」の会員も参列した。戦後50年を迎えた95年、善蔵さんは「富山大空襲を語り継ぐ会」で当時の記憶を次のように語っている。
「爆弾が落ちた跡は、瓦礫が積み重なり、百メートル四方位に遺体の断片が散らばって、きちんと始末がされてはいなかった。後で聞くと、『実は、箱の中へ入れた遺体は、どれが誰のやら性別もわからず、手と足を寄せて、あてずっぽうで入れたのだ』ということだった。(略)現場を見ると、瓦礫の下に蠅が沢山群がっている。そこには必ず肉片があった。暑く、臭かった」(同会会誌第一集より)
想像を絶する惨状、まさに地獄である。さらに目の前の遺体がわが家族であるなら……そう考えると言葉を失う。
当時国民学校2年生で、着弾地から約100メートル先の自宅で爆弾の被害を受けた北村竹弘さん(86歳)は、脳梗塞を患い失語症が残る体で今年も例年通り参列。「病気で忘れてしまったこともあるが、あの日のことは覚えている。ものすごい音がして爆風が起き、大きな穴ができた。このようなことは二度と起きてはいけない」と懸命に語り、静かに手を合わせた。町内会長となったことを契機に地域住民の聞き書きをした近所の元・中学校の社会科教師の坂田正博さん(73歳)は「爆弾が落ちたところには巨大な穴ができ、50メートルほど先にあったタバコ屋は爆風で戸板が吹き飛んだという証言があった」と語った。
朝鮮人労働者も犠牲に
祖父と同名の孫、鈴木善作さん(73歳)によると、父の善蔵さんは戦後長らく戦争の話をしなかったが、碑を建てた後にポツポツと話すようになったという。「父にとっては辛い体験だったが、こうして『平和祈願之碑』という碑があることで悲劇が伝えられ、知られてきた。碑も、そして忘れ形見として祖父の名を継いだ私も、この出来事を伝える重要な役割を任された。平和への思いを受け継いでいきたい」と語る。「富山大空襲を語り継ぐ会」事務局長の柴田恵美子さん(76歳)は「戦争や空襲の歴史を知ることは、それがいかにひどいものだったかと同時に、私たちがどう生きるべきかを教えてくれるという意味でも重要。今後も語り継いでいきたい」と述べた。
富山市では豊田本町への投下の6日前の7月20日にも、近接する中田・森の両地区と下新西町の軍需工場を標的に計3発の模擬原爆が投下された。中田・森地区では朝鮮人労働者がいた施設が直撃を受け、死者47人、負傷者40人以上と言われる甚大な犠牲が出た。
91年以降「春日井の戦争を記録する会」の金子力さんや、元・徳山工業高等専門学校教授の工藤洋三さんらが米軍資料から、米軍の原爆投下部隊・第509混成群団が広島・長崎を前に模擬原爆・パンプキン爆弾で投下訓練を行なったことを明らかにした。その破壊攻撃は「搭乗員たちに心理的高揚を与える目的もあった」(第509混成群団の作戦計画の要約)という。人命を弄ぶ戦争の“地獄”の断面がここにある。来年は戦後80年。戦争体験者が激減する中、その歴史を直視し語り継ぐことは今生きている一人ひとりの責務だ。富山の碑も語り部たちも、命の大切さを語り、伝え続けている。
(『週刊金曜日』2024年8月9日・16日合併号)