永山則夫、連合赤軍など担当の大谷恭子弁護士死去
太田昌国・評論家|2024年12月26日5:09PM
さまざまな刑事事件の弁護人を務めた大谷恭子弁護士が、10月11日に亡くなった。74歳だった。
1950年、東京・十条で米店を営む両親の下に生まれた。早稲田大学法学部に入学したのは学生運動が激しく展開されていた真っただなかの69年。付き合い始めていた男性が逮捕され、救援活動に奔走するうちに、時代に抗う者たちが弾圧される刑事事件の弁護人になろうと心に決めた。
弁護士登録をした78年、成田空港建設に反対する若者たちが管制塔を占拠した事件で大量の逮捕者が出て、接見と裁判に追われた。自身の目論見通り刑事事件にかかわって、弾圧された者の代弁者となる弁護士人生が始まった。
その「私の弁護士生活をガラッと変えた」と自ら語るのは、翌年担当することになった、脳性麻痺の小学生・金井康治にかかわる一件だった。
養護学校に通っていた康治は、弟や近隣の友人と同じ普通学校に通いたいと訴えた。教育委員会がそれを認めなかったために、支援者とともに自主登校し、固く閉ざされた校門前に机を並べて勉強した。康治がトイレに行きたいと言うので、支援者がバギーごと門を乗り越えたところ、建造物侵入で逮捕された。
「障害児に学籍を与えないこと自体が違憲だ」との主張による憲法裁判として最高裁まで争ったが、支援者への有罪判決は変わらず、彼らは公務員職を失った。
敗北感に打ちひしがれた大谷は、この問題の解決のためには制度改革しかないと考え、障害者権利条約批准に備えた国内法の整備作業に参加した。障害の有無や国籍、年齢、性別などに関係なく、違いを認め合い、共生していくインクルーシブ(包摂的な)社会を実現するために理論的かつ実践的な努力をすること――生涯を貫く大谷の、重要な柱となった。
アイヌ肖像権裁判では、先住民族の諸権利を確立するための理論構成に挑んだ。永山則夫連続射殺事件裁判では、判決が死刑→無期懲役→死刑と二転三転し、人の命を弄ぶような裁判の在り方への疑問から、確信的な死刑廃止論者になった。
「弁護士は事件に出合って、事件に育てられる」とは大谷の口癖だったが、それはとりわけ、永山とのかかわりの中で得られたものだった。
「少女たちは社会の鏡」
永田洋子らによる連合赤軍事件の裁判では、当事者たちが犯した深刻な過ちの原因には男女間の関係性の歪みがあったにもかかわらず、女だけを「化け物」のように描く判決や世論と対峙した。
この裁判では、女性革命家の生涯をよく書いていた瀬戸内寂聴に、永田の情状弁護を依頼した。これを機縁に、大谷と寂聴は生涯を通じて肝胆相照らす仲となった。寂庵の活用方法を話し合ううちに大谷は、かつて厚生労働省の官僚として、障害者に関わる制度改革作業をともにした村木厚子に助言を求めた。
その結果、寂聴、村木、大谷が2016年に呼びかけた「若草プロジェクト」は、貧困・虐待・DV(ドメスティック・バイオレンス)・性的搾取・薬物依存などで生きづらさを抱えた少女や若年女性を支援するものだった。早すぎた晩年、大谷は「少女たちは社会の鏡」と強調した。
土井たか子、倍賞千恵子などとともに神楽坂女声合唱団に属するなど、音楽をこよなく愛した。今年の10月中旬には、師事するピアノと声楽の教師が開く年に一度のボーカル&ピアノ発表会で、大谷がベートーベンの「悲愴」第2楽章をジャズ・バージョンで演奏し、「島原の子守唄」を歌うプログラムが組まれていた。夢かなわず、その日を数日後に控えて、この世を去った。
その発表会は「生徒~故大谷恭子さんを偲んで」と名づけられて、予定されていた日に実施された。大谷に音楽レッスンを施した教師が「悲愴」を演奏し、「島原の子守唄」を歌った。家族だけで営まれた通夜と同じ日のことだった。(文中敬称略)
(『週刊金曜日』2024年11月15日号)