〈抵抗の始まり〉崔善愛
崔善愛|2025年2月17日8:01PM
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昨年は、友人たちから親を見送ったとの報を聞くことが多かった。そのたびに私の両親が60代でこの世を去ったのは早かったんだなと、30年ほど前を思い出す。
母は京都・東九条出身で、韓国籍の在日2世。父親を早くに亡くし、長兄がメッキ工場を建て、8人の兄弟姉妹を養った。母は大学進学を望んだが許されず、短大を卒業した。そして朝鮮半島北部・宣川から朝鮮戦争を経て日本に単独で渡ってきたキリスト教を学ぶ神学生、昌華(私の父)と恋愛した。身寄りのない苦学生、それも牧師になる人と結婚すれば食べていけない、と祖母は反対したが2人は押し切った。
父の初任地は兵庫県宝塚市。小さな伝道所を開いたが生活できず、段ボール箱を食卓に、ご飯にお醤油をかけるだけだった。そんななか兄が生まれ、2年後、私は生まれた。翌1960年、北九州市の在日大韓キリスト教会小倉教会に父が赴任、一家で引っ越した。私は教会にあったアップライトピアノを使わせてもらい、5歳から近くのカトリック教会付属の音楽教室に通うようになった。
音楽大学2年になるまで、自分のピアノを持ったことがなかった。初めて自分のグランドピアノが下宿先に運びこまれた年、私は外国人登録証の更新で、指紋押捺拒否をした。母はいつしか私がピアニストになることを夢見ていた。私もピアノを弾いていると、遠い時代の遠い土地で生きた未知の作曲家の世界の中に入ってゆける……、現実ではない世界に魅かれていった。
大学卒業時の83年、NHK・FMラジオ「夕べのひととき」に出演することになり、名古屋市内の放送局に行った。
録音を終えると「お名前はどう読めばよいですか?」「チェ・ソンエです」とのやりとりがあった。数日後、担当者から電話が入り、「NHKの方針として日本語読みしかできないことがわかりました」。私はすぐ、放送局へ出向いた。担当者に「顔の見えないラジオで、サイ・ゼンアイと呼ばれても、誰も私だとは思わない」と言った途端、涙が出て止まらなくなった。
同年、指紋押捺拒否で刑事裁判が始まった。裁判所で意見陳述したとき、傍聴席で母は泣いていた。ピアニストになるはずの23歳の娘が、告発され被告席に立っている。地裁でも高裁でも「有罪」――。私の国家権力への抵抗はこうして始まった。
(『週刊金曜日』2025年1月24日号)