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ドキュメンタリー映画と倫理的責任 性被害サバイバーでも映画監督として免責されない
想田和弘・映画作家、『週刊金曜日』編集委員|2025年4月3日5:53PM
被写体との権力勾配
いずれにしろ、このようにドキュメンタリーの映画監督には、性被害サバイバーには生じえない、大きな責任が生じる。
そしてとくに被写体に対する責任は、映画が完成した後も決して消えない。というのも、どんなに細心の注意を払っていたとしても、被写体との間に行き違いや摩擦が生じることはある。被写体から「こんなはずではなかった」と自分の描かれ方について抗議を受けるようなこともあるだろう。僕にも身に覚えがあるので、決して偉そうなことは言えない。僕自身も不完全な人間であり、作り手である。
しかし肝心なのは、そうした局面で被写体の声に真摯に耳を傾け、向き合うことではないか。そして何らかの対応を約束するなら、それを誠実に実行することだ。なぜなら繰り返しになるが、作り手と被写体の間には権力勾配があると同時に、下手をすると被写体の人生を滅茶苦茶にしてしまう恐れがあるからだ。
そもそもドキュメンタリーの被写体は、別にその必要も義務もないのに、作り手を信頼し、自分の個人的な生活や生き方を開示してくれた人たちである。作り手は被写体にいわば大きな借りがあるのであり、被写体の信頼に応える倫理的責任がある。
そういう観点からして、伊藤氏や制作会社、プロデューサーらは、映画に懸念や要望を表明した西廣弁護士らに対して、その声に真摯に耳を傾け、誠実に対応してきたと言えるのかどうか。僕が知る限りでは、十分とは言えないように思える。
それどころか伊藤氏は、二度の記者会見を開いて問題提起した西廣弁護士や佃克彦弁護士に対して、依頼主と弁護士のトラブルを解決するための「紛議調停」を申し立てた。その申立書で伊藤氏は、彼女の名誉を毀損する発信を行なわないことと、これまでの発信について謝罪広告を出すことを求めている。

加えて伊藤氏は、東京新聞の望月衣塑子記者に対し、執筆記事で名誉を毀損されたとして提訴した。望月記者も映画の被写体であることを考えれば、異常な事態である。
なぜ異常なのかと言えば、繰り返しになるが、作り手は被写体に対して大きな借りがあるのであり、トラブルが生じたら、少なくともまずは話し合いを尽くす責任があると思うからだ。
それに言論に対して安易に法的措置を取ることは、言論や表現の自由を萎縮させることでもある。もし伊藤氏が表現者ないしジャーナリストを自認するのであれば、その行為は自分で自分の首を絞めるに等しい。
もちろん、話し合いをしてもどうしても折り合いがつかなくて、訴訟にいたることも、時にはあるだろう。ホテルの防犯カメラの映像を使うことが、何としても必要であるなら、訴訟や批判を覚悟で使用することも、選択肢の一つであろう。
だが、本件で話し合いが尽くされたという形跡は見当たらない。防犯カメラの映像についても、当初は「使用しない方向で検討中」と制作会社のスターサンズを通じて言っておきながら、弁護団との約束を違えて使用したようである。いや、気持ちが変わって約束を違えなければならぬこともあるであろう。だが、そうであるならば、少なくともそのことを弁護団に伝えて、謝罪した上で使うべきではなかったか。
ドキュメンタリーの作り手としての伊藤氏側の一連の対応は、倫理的な問題をはらんでいるように見える。
また、伊藤氏側は2月20日に予定されていた記者会見を、当日になってキャンセルした。「体調不良によるドクターストップ」というのがその理由である。
伊藤氏が性被害サバイバーであることを考えれば、体調不良で出席できないのも、やむを得ないのかもしれない。
しかし映画監督としては、自らの大きな説明責任を果たすために、出席すべきであったと思う。もし出席が不可能だとしても、プロデューサーのニアリ氏やアクヴィリン氏、スターサンズが、代わりに記者会見を開くこともできたであろう。
3月2日に開かれた米国アカデミー賞の授賞式では、伊藤氏はニアリ氏やアクヴィリン氏などとともに、元気な姿を見せた。3人は、それに先立って2月25日にロスで開かれたアカデミー賞候補者ディナーにも出席したと報じられている。もちろん、表面的には元気に見えても、実は元気がないのかもしれない。
しかし、少なくともハリウッドに渡航してディナーや授賞式に出席できる程度には体調は回復していて、したがって記者会見のやり直しも可能だったはずである。映画監督としては、アカデミー賞を欠席してでも、記者会見を開く責任があったのではないだろうか。当然、記者会見を開いて説明する責任は、今でも消えていない。
くどいようだが、伊藤氏が単に性被害サバイバーであるなら、こうした責任は生じえない。しかし彼女は自分の意思で映画を作り公開した、ドキュメンタリーの監督である。しかも世界的な評価を受け、アカデミー賞にまでノミネートされた影響力の大きい監督である。
厳しいことを申し上げるようだが、性被害サバイバーであることは、映画監督としての責任を免責する理由にはならない。
伊藤氏は今からでも、自らの被写体に対する紛議調停や訴訟を取り下げ、真摯な話し合いをし、記者会見も開くべきではないだろうか。それが、ドキュメンタリー界に身を置く一人の不完全な人間、作り手として、僕が感じていることである。
ドキュメンタリーの世界が、より豊かで、フェアなものとなるために、本稿が少しでも役立ちますように。
(『週刊金曜日』2025年3月21日号)