ウクライナ侵攻から3年、戦場ジャーナリストが報告 ある「音楽家」の死から見えてきたもの
五十嵐哲郎・戦場ジャーナリスト。元NHK報道番組ディレクター|2025年4月3日6:56PM
ロシアによるウクライナ侵攻開始から3年間でウクライナ側は4万5000人以上の兵士が亡くなり、1万2000人を超える市民の命も失われた。犠牲者があまりに多く、普段の報道では一人ひとりの死に光が当たることは少ない。本号では戦場ジャーナリストの五十嵐哲郞さんが、ある無名兵士の死を通してウクライナの状況と遺族の思いを報告する。
「この戦争を早く終わらせたい。兵隊たち、若者たちが人生の豊かさを経験する間もなく亡くなっている。もっと生きて人生の醍醐味を味わってほしい」
昨年7月、ウクライナ東部のドンバス地方で亡くなったある無名兵士が、生前に遺した言葉だ。兵士の名は、ヴァシール・グニャテュク。開戦前に音楽教員をしていた彼は戦友たちから「音楽家」と呼ばれて親しまれていた。

ヴァシールの言葉は何を意味していたのか。
訃報に触れたのは、東京の仕事場でパソコン作業をしている時だった。ふと息抜きにSNSを開くと、見知らぬアカウントから投稿されたヴァシールの写真が見えた。迷彩服にえんじ色のベレー帽姿。それでいて優しい眼差しでレンズを見つめている。嫌な予感がした。画面の「翻訳を見る」を押すと、「戦死」とあった。日本での平穏な暮らしに戻り、すでに1年が経っていたが、気持ちが一気に戦場へと引き戻された。砲撃の音や死臭、肚がずしんと重くなる恐怖。不意を突かれ、その日はまったく仕事が手につかなくなった。
ヴァシールと知り合ったのはまったくの偶然だった。ともに過ごしたのはわずか1日。それでも戦死したと知って気持ちを揺さぶられたのは、その人間的な魅力によるところが大きい。
戦地に立った「音楽家」
開戦から1年の2023年2月24日。最前線で戦う兵士がどのような思いでその日を迎えたのかを取材するため、筆者は東部ドネツク州にいた。激戦地を転戦してきたウクライナ軍の第80独立空中強襲旅団が取材を受けてくれた。突撃任務を主とする精鋭部隊の一つで、戦闘任務から戻ってきた分隊がいるというので指揮官とともに現場に向かった。
宿営地は町の外れにあった。泥と化した黒土の未舗装路に面した古めかしい一軒家だ。最も近いロシア支配地域までの距離は15キロほど。大砲の射程に入る距離で砲撃音や銃声が時折聞こえるものの、前線任務に就く兵士の間では「安全な場所」とされていた。
軍に接収されたその家には台所と二つの部屋があり、12人の兵士たちが肩を並べていた。寝袋やAK銃などの装備品を広げて休息を取っている。発電機があるので暖房とインターネットは使えるが、水は出ないと指揮官から説明を受けた。トイレに至っては零下20度まで下がる庭先に掘られた穴を使うように指示された。
日本から来た取材者であると指揮官から紹介され、最初に「ハーイ」と明るく挨拶を交わしてくれたのがヴァシールだった。筆者に興味を示したヴァシールがウクライナ語で指揮官に質問し、発した一言で部屋が笑いに包まれた。事情がのみ込めない筆者に、指揮官付の通訳兵が英語で説明してくれた。
「みんな人生で初めて日本人を目にしたらしいんだが、どうも想像と違っていたらしい。君は背が高過ぎるんだと。老兵ヴァシールが、この年齢になっても知らないことはまだたくさんあるものだと、みんなの驚きを言葉にしてくれたんだ」
20~30代中心の精鋭部隊
精鋭部隊を前に緊張していた筆者(身長は187センチで、彼らより大きい)はもとより、得体の知れないジャーナリストが来たと身構えていた兵士たちもヴァシールの一言で一気に和んだ。少し気分も落ち着き、はしゃぐ兵士たちをよく見ると、40代を目前にしていた筆者よりもだいぶ若い。身体的な負荷の多い突撃部隊ゆえに20代から30代前半を中心に編成されていた。当時45歳のヴァシールは「老兵」の扱いだった。
ふと部屋の一角を見ると、戦場には似つかわしくないアコーディオンが棚に置かれていた。
「これはバヤンというボタン・アコーディオンで、ウクライナの伝統楽器だ」。ヴァシールが通訳兵を介して教えてくれた。「開戦前まで音楽教員をしていました。このバヤンと、ウクライナのフルート『スピルカ』を地元の子どもたちに教えていたんです。演奏してみましょう」
そのバヤンは部隊が解放に携わった南部のヘルソンで、地元の人たちからプレゼントされたものだった。兵士たちの士気が下がったり、緊張を強いられた任務から戻ったりしたときに演奏してきたという。そしてヴァシールはいつしか「音楽家」のコールサインで兵士たちの間で知られる存在になった。
バヤンが奏でられると、別室にいた分隊の若い兵士たちが集まってきた。民謡なのだろう。「コサック」や「ウクライナ」といった言葉が聞き取れた。ヴァシールは学校の先生がそうするように、フレーズごとに早口で次の歌詞を伝え、若い兵士たちをいざなっていく。つられて歌の輪に入っていく兵士たち。次第に大合唱となった。
バヤンの音色には力がみなぎり、ヴァシールの目は輝きを増していく。前線任務を終えたばかりの兵士たちは、「音楽家」の魔法によって精気を取り戻していった。どんよりと色を失った戦地で、ヴァシールが生み出す音楽だけが生の輝きを放っていた。