週刊金曜日 編集後記

976号

▼「穿った見方をすると……」という言い方があります。へりくだっているようで、どちらかというと自分の見方に自信を持ってるニュアンス。最近、私も使いました。アッキーこと安倍昭恵さんのことで。本誌先週号「政治時評」の大村アスカさんの意見には私も賛成。期待しちゃだめでしょう。といいますかもう一歩踏み込んで、私はあれは「ぜーんぶ計算」だと思うんです。異なる意見でも何でも自由に言い合えるパートナー、という「演出」。穿った見方をすれば。『朝日新聞』がいつかアッキーを紹介した記事で「はからずも政権に追い風」と見出しを付けていましたが、「はからずもなんて甘いよそれー」じゃないかと。
 ところで、最近、ポールやらストーンズやらディランやら、大物の来日ラッシュです。大人気で、チケット、ぜーんぜん取れません。この状況を「政治から市民の関心を遠ざけようとする作戦に違いない!」と憤っている友人がいます。斬新な発想ですが、そりゃ穿ちすぎだよ、ですね。(小長光哲郎)

▼学校も役所なんだなあ、と感ずる事が最近あった。2月に受験を控えた中学3年の息子の担任が、1月1日付で副校長に昇進して別の学校に移られたのだ。どこかの校長のポストが欠員になり、結局玉突き人事になったらしい。集会で報告がされると、クラスにはどよめきが起こり、涙を流す生徒もいたとのこと。異動された担任も後ろ髪をひかれる思いだったろう。
 自宅で息子の話を聞いた娘が、「自分も担任の先生が替わったときは驚いたけど、それよりも驚いた」と訳知り顔で言う。小学生の娘は、4年間で5回、担任の先生が替わった(ずっと担任が持ち上がりのクラスもあったのに)。厳格な先生、鷹揚な先生、厳格な先生、鷹揚な先生と毎回正反対の雰囲気の先生にあたったためか、クラスの方針が180度変わったのには親子ともども面食らった。残念だったのは、最初の担任の先生が、いつのまにか学校からいなくなってしまったことだ。
 息子の前担任は「来週会いに来てくれる」とのこと、とりあえずよかった。(小林和子)

▼恒例、誰も待ってなんかいなかっただろう、極私的映画ファイブの週がやってきました。
 邦画、洋画関係なくの5本ですが、あくまで劇場に足を運んだものにこだわるので多少「偏向的」になってしまうのはあしからず。
 映画業界と出版業界は、監督+作家、配給会社+取次、劇場+書店といった具合で流通形態が似ています。町の本屋さんがなくなっていくのと、2番館3番館の地元の小さな映画館が消えていくのは同じ傾向で、両者とも大型化による生き残りを図っています。
 DVDや電子書籍がそれに変わって、今や電車の中での会話すら珍しくなりみんなモニター画面とにらめっこ。普通の書店が「リアル書店」なんて言葉で言われてしまう。だからこそ小屋(劇場)へ出かけることにこだわりたい。「家を出る」時から映画体験は始まっていると言ったのは寺山修司か。
 『オン・ザ・ロード』『標的の村』『共喰い』『ウォールフラワー』『ハンナ・アーレント』。良い年になりますように。(土井伸一郎)

▼アパート群が建ち並ぶニュータウンに越した最初の元旦は、元上司宅でお雑煮をご馳走になり、ご家族と一緒にこれまで縁がなかった初詣でに出かけるという、思いもかけない展開になった。
 歩いて20分ほどのところに横たわる市境の尾根を越えると風景が一変。大根などの冬野菜が整然と植え付けてある畑に続いて、尾根筋のわき水で耕作する谷戸田と呼ばれる水田が広がる。市街化が抑えられているので、民家はまばら。葉が落ちた果樹林の種類を当て合っているうちに、鎮守の森が見えてきた。「汁守神社」といい、近くに「飯守神社」がある。対になって、里山の人たちの暮らしや農業を守ってきたのだそうだ。
 大椿が繁る境内で、はっぴ姿の氏子さんに勧められるまま大太鼓を5回、力いっぱい打つと旧年のもやもやが晴れたような気になる。古びた鈴を、こちらも元気よく鳴らし今年の幸せを祈る。「不戦の誓いのため」などと苦しい言い訳をしなくてすむ穏やかで清々しい神社参拝だった。(神原由美)

---------------------------------------------------------

訂正

1月17日号28ページの「台湾」記事内の「丁立中氏」は「丁守中(ティンショウチョン)氏」の誤りです。