週刊金曜日 編集後記

1001号

▼今週号では「虐待していないのに児童相談所が一時保護した子どもを返してくれない」と訴える人々から話を聞いた。にわかには信じられないことだったけれど、結果は記事のとおり。その理由としてあちこちで聞かれたのが、子どもを保護すると児相に金がつくということ。しかし、児相にそんなシステムはない。
 では儲からないのに、なぜ子どもを返さないのか。以前、もう大丈夫だろうと児相が判断して保護者の元に子どもを返したら、直後に虐待されて亡くなった事件が何回もあった。児相はバッシングに晒され、役割の一つである家族の再統合よりも、今はまだ家族への介入の段階に留まっているではないかという分析も聞いた。
 厚木の児童虐待死事件はなぜ、もっと介入しなかったのだろう。子どもを返さないのも虐待死事件も、臨床心理士の須田桂吾さんらが指摘するように一部職員の能力不足や人手不足などが原因で、不幸なことが重なったということなのだろうか。いずれにしても、被害に遭った子どもや保護者はたまったもんじゃない。今回は叶わなかったけれど、児相側の胸の内も聞かせてほしい。(吉田亮子)

▼先日、知人に薦められて『ミシシッピー・バーニング』を観た。1964年に米国のミシシッピ州で公民権運動家が殺された事件をモデルにした映画。黒人差別が根強く残る南部では、黒人の家に火をつけたり、殺害するということが公然と行なわれていた。それらを率先してやっているのはKKK(クー・クラックス・クラン)だ。
 あまりの差別の凄惨さに気が滅入りそうになったが、話が進むにつれ、これは過去の他国の話ではないと感じた。KKKが主張する論理は、今の日本でヘイトスピーチをする人たちの論理とつながる。今年に入り、札幌市では「KKK」の落書きが相次いでいるという。
 映画では、町の保安官らが公民権活動家を殺害したことが発覚したあと、町長が自殺した。その現場に駆けつけた北部のFBI捜査官の一人が、町長が事件に関わったわけではないのだから命を絶つ必要はなかったのではないか、ということを言った。すると、ウィレム・デフォー演じる主人公はこう述べる。「見てみぬふりをしていたら同じことだ。町長は共犯者だ。そして、私たちも」と。この「私たち」にはもちろん「私」も含まれている。(赤岩友香)

▼コンピュータの来歴には諸説あるが、大昔にどこかの専門家の方に聞いたのが、「ミサイルの弾道計算のために開発合戦が繰り広げられてきた」というものだった。インターネットだって、元をたどれば米国の軍用ツールであったことは周知の事実だ。インターネット黎明期には、軍用技術を使って便利な生活を享受することの是非を論じる人もいたように記憶している。
 しかし今や、コンピュータやインターネットなしの生活は考えられない。世界中のニュースがほぼリアルタイムで伝えられる。マスメディアでは報じられないようなニュースを知ることもできる。好きなミュージシャンの近況を調べることもできる。航空券やホテルの予約も自分のパソコンでできてしまう。ガザに行ったこともない私が、「HAPPY」に合わせて踊るガザの人々や、ガザの街の様子を見ることもできる(インターネットでこんな動画が見られるなんて、なんと皮肉なことだろう)。
 技術が人に幸せや感動をもたらすこと、一方でさまざまな不幸をもたらすこと、いろいろ考えさせられたのでした。(渡辺妙子)

▼幼いころ、自宅で購読していたのは『読売新聞』だった。小学校では『朝日新聞』を題材に授業を進めることが多かったので、親に購読紙の変更をおねだりしたが、にべもなく却下された。家族に「巨人」ファンはいない。母親曰く、『朝日』特有の「権威」と「説教臭さ」が苦手だったようだ。ただ時は1970年代、当時の『読売』はリベラルだった。目を通すのはスポーツと社会面、そして人生相談と投書欄が大好きだった。
 80年代に入ったばかりのある日、大学生の投書が目にとまる。概ね次の様なものと記憶する――「非武装中立」は「理想論」であり、現実的でないとする意見に対し、わが国の軍備増強がもたらすソ連との緊張の高まりこそが現実。理想による方向付けのない「現実論」は有害無益である――いまの世の『読売』に採用されるとは思えないこの訴えは、まっさらな少年だった私に目から鱗であった。それ以降、したり顔の「現実論」には与しないよう心掛けてきた。それにしてもわが首相、緊張状態が続く近隣諸国との現実をどう考えているのだろうか。はたして彼の目指す理想とは?(町田明穂)