1011号
2014年10月10日
▼学生の頃に読んだ『夜と霧』(霜山徳爾訳、みすず書房)を再読した。強制収容が一人の人間にいかに体験されたかを精神科医ヴィクトール・フランクルが綴った名著。思うところあってページをめくりつづけたが、探したい文言は見つからなかった。
第二章「アウシュヴィッツ到着」は、1500人もの人が列車で荷物とともに輸送される場面からはじまる。が、その前、人々は列車にどう乗せられたのか。ゲシュタポ(秘密国家警察)による物理的な暴力はあったのか、なかったのか。連行される際に強制だったかどうかに、本書は触れていない。
しかし第八章「絶望との闘い」にはこんな一節がある。
〈未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落した〉
アウシュヴィッツが人類史に突きつけたものは、連行の際の強制性の有無、ではないはずだ。想像しかできないが、想像することもまた、人のなせる技だ。(野中大樹)
▼「あとは野となれ山となれ」。
泥縄式の発想と、無責任で欺瞞に満ちた説明で再稼働や戦争の準備を推し進めようとする人たちがいる。「上の方」にいる人たちだ。きっと世間一般の人のことを「バカ」だと思っているに違いない。僕らは国にとっては駒のひとつにすぎない。ただの「数」である。
先日、テレビで「老後破産」を扱った報道番組を見た。「戦後」が終わって「もう豊かでない」という事実にみんな気づきはじめている。「消えた年金問題」に象徴される戦後政治の歴史的無策の数々。
いじめ、貧困、心の病、多数の自殺者、ブラック企業、福祉政策の破綻……。静かに血が流れている。「ヘイト・スピーチ」や「『朝日新聞』バッシング報道」の常軌を逸した過熱ぶりを見るにつけ、この国を被う閉塞感を打ち破るための「熱狂」を期待している多くの人々の「空気」に戦慄を覚える。
気がつけば「戦時」だ。(本田政昭)
▼半年前のOS(オペレーティング・システム)WindowsXPサポート終了は事件だった。XPの古いノートブックをどうすべきか。
初めて、フリー(無償)のOSリナックスを入れた。一番シェアの大きいUbuntuはインストールしやすく、Windowsと比べても遜色がない。次に、リナックス老舗のDebianを入れた。Debianはインストール時にフリーのソフトウェアだけで構成されている。私のノートブックに対応する無線のソフトウェアがフリーではないので、このままでは使えない。Debianのリポジトリ(倉庫)から、パッケージ管理システムを使って入れた。これで無線も復活。ソフトも万全。
無料でよかったと思ったら、Debianで言うフリーとは、「ただ」の事ではなく、言論の「自由」と同じ意味だという。Debianには社会契約があり、ソフトウェアのコミュニティと個人が尊重され、ソースコードも公開される。企業による排他的独占的なソフトウェアとの違いは大きい。(樋口惠)
▼歴史修正主義や差別の蔓延る昨今の言論で気になっているのが国家という枠組みを無意識の前提とした「国益」などといった「国家の論理」を前面に押し出す言論だ。右派メディアはもちろん、それを批判する側にもしばしば見られる。そこでは戦争犯罪や差別の被害の認定が「戦争犯罪を認めた方が国益にかなう」という具合に日本の国家利益に結びつけられて語られている。しかし、この発想を自明とすると、いろいろなものが不可視化されてしまう。「慰安婦」問題の要諦は国家の利益などに関係なく被害者の尊厳回復である、ということもその一つだ。
安倍首相は「『朝日新聞』の誤報で日本のイメージが傷ついた」と語った。被害者の存在を無視する非人間的なこの思考は典型的な「国家の論理」だ。「国家の論理」に阿るのではなく、それが民衆に強いた犠牲にこそ思いを致すべきではないだろうか。(原田成人)