1016号
2014年11月14日
▼労働者派遣法の改悪が国会で審議中だ。派遣=人貸しは、近世から敗戦まではヤクザの商売だった。清水の次郎長は1889年7月に開通した東海道線の工事に1日2000人の人足を供給したという。人をレンタル品か安く使える消耗品のように右から左へと動かすだけで中間マージンをピンはねし、雇用者責任を放棄するこの人貸しは、戦後(1947年)になって職業安定法で禁止された。
合法化したのは自民党で、そのDNAは安倍政権に引き継がれている。85年成立の労働者派遣法は当初、通訳、秘書など専門13業種だけだったが、次々と業種を拡大し、ついに製造業も合法化された。労働者を雇用する場合、企業は労働基準法や雇用保険法などの法的責務を負う。この雇用者責任を回避し、正社員に比べて差別的な低賃金で使い捨てできるのが派遣だ。2500年前の古代ギリシャの奴隷さえ、ポリスの市民と同じ労働をすれば同じ賃金をもらえたという。労働者派遣法は「現代の奴隷法」ではないか。(片岡伸行)
▼〈何がいいたいのかといえば、縮尺された空間には人間が不在である、ということである。(中略)人が住み、暮らしと生産が営まれていることに対する想像力が欠けていることである〉――編集者の仲里効は、高良倉吉(琉球史家)との対論集でこう記している(『「沖縄問題」とは何か』弦書房)。
仲里は、〈いわゆる普天間飛行場の名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸への「移設案」なるもの〉 の空撮写真を前に、〈(上空からの目線は)監視や管理する目と決して無関係ではない〉 と続ける。
軍事基地の「おかげ」で経済がまわり、多数の人々が利益を享受している、とする評価がある。だがその存在のかげで、夜も昼も眠られず、血を流し、涙を枯らし、愛する人を失い、尊厳を踏みにじられ続ける人々がいる。「縮尺された地図」には反映されない、生命の営みを重んじたい。(内原英聡)
▼芥川龍之介の世界が、パレスチナとつながった。11月5日から5日間、パレスチナと日本の合作劇「羅生門―藪の中」が東京都内で上演された。芥川の『羅生門』と『藪の中』をつなぎ合わせた黒澤明監督の映画『羅生門』をリスペクトして作った単純な舞台かと思っていたが、予想に反し、舞台の残像が今も脳に焼き付いている。
門は「検問所」、藪の中は「戦火のパレスチナ」とリンクした。「間違いと正解、真実と虚偽、事実と嘘は常に絡まり合って」いると演出家のジョージ・イブラヒムは語る。『藪の中』になぞらえて一人の男の「死の真相」について語る登場人物たちはみな「男を自分が殺した」という。最後には、門番まで武器を置き「自分が殺した」と語る。何が「真実」なのか。
俳優の一人は舞台の後に、「自分は犠牲者でもあり、“殺人者”でもある」と話してくれた。彼らの言葉が胸に刺さった。遠く離れた日本の地に暮らし、何もしていない自分に、「パレスチナの怒り」が響いてきたのだ。(渡部睦美)
▼北星学園大学への脅迫事件では、田村学長は元『朝日』記者の植村さんの非常勤講師の契約を更新しないと表明し、脅迫者の思惑通りにことが進みそうな勢いだ。学生の就職への心配、経営への影響など事情はいろいろあるだろう。しかし苟も学を志すもの、このような為体でよいのだろうか。リベラルな学風である学園内には「日本には学問の自由がある。他の大学で雇ってもらえばいい」という声すらあるという(『マガジン9』11月5日付)。学問の自由が脅かされているさなかにこの発言がでてくるところに、リベラルと呼ばれる人々にさえ権利や自由を護ることへの冷淡な態度や自由や権利が自分と無関係という風潮がはびこっている様子がうかがえる。
また「慰安婦」報道に関わった人物に向けられる日本社会の憎悪に満ちた反応は、学問の自由への攻撃というだけでなく、歴史修正主義が蔓延し、戦争被害者が罵倒される倒錯した社会状況の産物であることも忘れてはならないのではないだろうか。(原田成人)