1025号
2015年01月30日
▼「イスラム国」とみられるグループによる人質事件。1月22日に東京都内で行なわれた中田考さん(イスラム法学者)の記者会見で、こんな場面があった。フランスの特派員が次のように問うた時だ。
「私のムスリムの友人が言っておりました。『イスラム国』の兵隊は傭兵で、それぞれの社会の敗者が集まっていて遠隔操作されている。人間的な価値はまったくない。この友人のコメントについて、先生はどう思われますでしょうか」
中田さんはこう返した。
「その友人の方がどういう方か私は存じませんし、その人が言っている内容について、どういう根拠に基づいて言っているのか存じませんのでコメントはできません。私の(これまでの)『イスラム国』訪問というのは、私の友人たちを訪ねたものです。彼らは正直で教養が高く、信頼できる人たちであったというのが個人的な感想です。知らない人について、私は何も言えません」
中田さんはムスリムだ。あれから、このやりとりをたびたび思い出している。(野中大樹)
▼「テロ」という用語が、メディアで頻繁に飛び交っている。しかもその実行者は「イスラム原理主義」や「アルカイダ」といった集団と同義で、悪玉の「テロリスト」とそれに反対する善玉の「民主主義諸国」という図式が成立するかの如き了解が一般的だ。だが、これは偽善ではないのか。先日パリで開かれた「『シャルリー・エブド』紙襲撃事件」の抗議集会で、仏大統領らと共に前列に加わっていたのが、昨夏のガザ空爆で数百人の子どもや女性を殺害したイスラエル首相のネタニヤフであったのはその象徴に他ならない。「テロ」の国際法上の定義は無いに等しいというが、仮に「非戦闘員や個人を政治目的のために何らかの法的・制度的な担保なしに殺傷する」と解釈されるなら、最たる「テロリスト」は米国でありイスラエルだろう。この事実を抜きに特定集団のみをそうレッテル貼りするのは、常に戦争と軍事的緊張を地上にまき散らす米軍産複合体の思惑に沿った偏見の増幅だ。問われているのは世界が構造的暴力と憎悪の連鎖からいかに決別するかであって、「テロ」一般ではない。
(成澤宗男)
▼昨年12月5日号の当欄で、10月3日号掲載「名もなき闘い――ネパール、HIVと暮らす」で取り上げた一家に送ってほしいと、寄付金が送られてきたことをご報告しました。その後、今年1月はじめにNPO法人・ISSC(国際学校建設支援協会)経由でこのお金が一家の元へ届いたと、記事の筆者・藤元敬二さんから連絡がありました。詳しい経緯はISSCのブログ(URL http://ameblo.jp/isasc/entry-11973434401.html URL http://ameblo.jp/isasc/entry-11978647746.html)に報告されています。
藤元さんによると、この寄付金のおかげで、一家は別々に暮らさざるを得なかった二女を引き取り、再び家族そろって暮らせるようになったそうです。また、記事には登場していませんでしたが、身体障がいを抱えた息子さんも継続的な治療を受けられることになり、今後もISSCが一家をサポートするとのこと。藤元さんのブログ(URL http://www.keijifujimoto.net)にも感謝の辞がアップされています。匿名の篤志家様、ありがとうございました。(渡辺妙子)
▼日曜日のドラマ「流星ワゴン」は、やり直したはずの過去が、結局その後もとに戻ってしまい、これからもきっといろいろ発見しながら延々とやり直していく模様。
やり直しドラマは、結構あって、前クールの「素敵な選TAXI」では選び直して、ハッピーエンドというパターンが多かった。対してやり直してもやり直しても結果が変わらないパターンの私的名作は「素敵なプロポーズ」。過去を変えるのではなく今から以降を変えていくという最終回で、その終わり方が気に入っていた。長い人生一度の選択だけではなかなか決まらない。たくさんの選択をくぐり抜けて、結局形を作っていくのは自分の性根でしかないのだと反省しつつ、改めて思うのだった。
今クールのナンバー1は「問題のあるレストラン」。問題のありすぎるセクハラ、モラハラシーン続出で、あるあるとうなずきすぎ、怒りのテンションがあがりすぎ、見終わった後、目はギラギラ。怒りパワーをもらっている。そして、今から溜飲を下げるのを心待ちにしているのだった。(志水邦江)