1036号
2015年04月17日
▼「戦後70年」という語に接して痛感するのは、戦争、あるいは平和に関する集団的記憶の希薄さだ。このまま政治日程が進行すれば、一人も殺さず、一人も殺さなかった戦後という時代は確実に終焉する。だが、70年という歳月は、国内戦争死者310万人、アジア全体で2000万人も殺した大日本帝国の暴虐を想起するのを困難にするほど、長すぎる時間なのか。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」という「決意」を弊履のように捨て去るのを可能にし、「血の同盟」だの「我が軍」だのと放言する卑小な権力者が改憲に自信を持つのを許すほど、過去の戦争とそれがゆえに辛うじて捨てはしなかった戦後の平和とは軽い体験だったのか。だが、決別したはずの他者を殺める「行為」の再来を間近にした社会の弛緩した空気を、どう解釈すればいいのだろう。
それでも戦前の77年の歴史は、圧政と不正義には屈しない勇気の尊さを教えている。今こそ、その勇気をふるいたい。(成澤宗男)
▼ポリフォニーという言葉がある。いくつもの声が重なった多声音といったらいいか。
4月5日に菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事が会談した時の発言(新聞記事)を、あれから帰宅するたびに読み返している。
「私たちのこの70年間は何だったのか」「27年間の間に日本は高度経済成長を謳歌した。私たちはその中で、米軍との過酷な自治権獲得運動をやってまいりました」
主体はいつも「私たち」。数えてみると、15分間に「70年間」が5回、「27年間」が4回も出てくる。一方の官房長官は、普天間の辺野古移設が決まってから「16年たっても進まなかった」とし、3000億円台の振興予算を確保する、この約束を守ると強調する。
現在を認識するとき、本土と沖縄では主体のありかたも、時間の射程距離も、著しく異なる。準備しておいたメモ用紙にはほとんど視線を落とさず、湧水のように出てくるポリフォニックな言葉を生んでいるのは、積もりに積もった時間の重みと、本土への苦々しいまなざしだろうか。(野中大樹)
▼沖縄県八重山諸島の竹富島(町)で住民の意向を無視したリゾート施設の計画が進行している。那覇市内に本社をおく不動産業?RJエステート(一丸秀信会長、泉博社長)の事業で、昨年11月に急遽発表された。6月に工事着工というが、敷地は観光名所のコンドイ浜近くにあり、急ピッチの計画には生態系や景観への配慮不足・破壊への懸念が強まっている。
地元紙『八重山毎日新聞』(1月8日)によると〈同社の担当者は「(同計画は)法令を順守しており、抵触するものではない。粛々と進めていきたい。町役場と協議しながら手続きを進めていく」としている〉が、竹富公民館の大山榮一館長らは今年1月7日、川満栄長町長に計画への反対を要請した。
3月31日時点で島内253人のうち約8割(200人)の住民が反対し、現在はインターネット上で署名活動を展開している(詳細は「沖縄・竹富島の自然と生活文化を守ろう!」「Change.org」で検索)。(内原英聡)
▼3月20日号の「金曜日から」で私は配送について「配送手配は毎週月曜日に行なわれる。月曜日が祭日の場合は前週の金曜日になる」と書きました。ここで使った「祭日」という言葉に読者の方から「祝日ならまだわかるが祭日とは何事か」とのご指摘がありました。
この文章を書くにあたって、私は振替休日など日曜日以外の休日を表現するために妥当な言葉は何か考えました。「建国記念の日」など祝いたくないので「祝日」には抵抗がありました。それであえて休日ともちがう言葉として「祭日」という言葉を選んだのですが、「祭日」とは『広辞苑』によると「皇室の祭典を行う日」「神道で、死者の霊を祭る日」「『国民の祝日』の俗称」とありました。ご指摘の通り認識不足、勉強不足を恥じます。ここは素直に「休日」とすべきでした。私はこれまでわかりやすく伝えようと心掛けて書いてきました。加えて歴史的背景も踏まえた上で言葉を選んでいきたいと思います。皆様ご批判よろしくお願い申し上げます。(原口広矢)