週刊金曜日 編集後記

1039号

▼特集「戦後『ゼロ』年の沖縄」の編集では、記事に登場する「沖縄人」の読み方が議論になった。関係各位にゲラの確認を依頼すると、赤字で「うちなーんちゅ」(呉屋守將氏)や「ウチナンチュー」(目取真俊氏)などと修正が入った。この表記を統一すべきか否かを検討し、今回は、各氏の表記を尊重した。
 沖縄県では1990年から5年に一度のペースで、世界各地の県系人が集う祝祭が開かれている。「世界のウチナーンチュ大会」というが、ここでの表記は「ウチナーンチュ」だ。ちなみに2011年の第5回大会では5000人以上の関係者が来沖し、41万人が来場したという。さらに「沖縄人」の呼称について、八重山諸島では、これを「ウキナァピトゥ」と呼ぶ地域もある。
 このように、本来、地域やその語句を用いる人の呼吸や意図によって、「言葉」にはバリエーションが生じる。沖縄県内の学校では過去、標準語奨励の一環で「方言札」が用いられた。現地語を話すと罰として首に札がかけられる仕組みだったが、近年は“シマ”の言葉を積極的に話していこうという意識も高まっている。(内原英聡)

▼ノーム・チョムスキー氏が『プログレッシヴ・マガジン』のインタビューで、米国の「標準テスト」の危険性を指摘した。2001年「落ちこぼれ防止法」によって義務づけられた、小学校・中学校での「標準テスト」と「テストのための教育」に、警鐘を鳴らす。この結果で、学校への予算の配分が決まり、教師の給与にも差が付けられ、子どもだけでなく、教師もランク付けされる。
 テストによる評価は、人工的であり、子どもの能力や本来の教育とは関係がない。テストのための暗記が優先され、子どもの好奇心や探究心に基づく本来の教育は蔑ろにされる。ランクを上げようと、子どもは個人的な利益を第一にし、最大の利益を上げようとする、「経済人」へと養成される。相互に協力し合い、助け合い、社会に働きかける人間性の育つ余地はない。日本においても、学力テストの結果による学校別ランキングが発表されている。氏の指摘するテストの弊害が心配される。(樋口惠)

▼先月、米国『タイム』誌が毎年独自に選出している「世界で最も影響力のある100人」が発表され、日本からは、村上春樹さんと「ときめく片づけ」シリーズで知られる片づけコンサルタントの近藤麻理恵さんが選ばれた。
 ちょっと気になったので、近藤さんの著書『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)を読んでみた。これまでの「片づけ」について一般的に考えられてきた「収納」というイメージを完全に覆す内容に衝撃を受けた。日常の身のまわりの物に「ときめく」かどうか、実にシンプルで深い問いかけだ。結果、ゴールデンウィークは、大量の服の片づけを強行することとなった。まずは、「捨てる」を終わらせ、できれば、〈一気に、短期に、完璧に片づける〉 ことが理想なのだが、とりあえず服だけはスッキリした。次は本である。ハードルは高い。大丈夫か。「片づけ」とは自分自身と向き合うことなのだ。負けるな俺。(本田政昭)

▼「憲法は国民の権利と自由を守るために国を縛りつけるもの」。それを知ったのは、すっかり大人になってからだった。15年ほど遡る前職時代、出版労連の熱海での勉強会。東京大学教授の小森陽一さんの講演を聴いて衝撃を受けたことを思い出す。昨年、集会の打ち上げでお目にかかる機会があり、恥じ入りながらご当人にそのことを伝えたところ、「学校で習わなかったの?」とのご質問。たしか縄文時代から始まる歴史の授業は現代まで辿り着かず、敗戦後の授業を受けた覚えがない。ただ政治経済の授業はあったのだ。もはや古い記憶は霞の彼方であった。
 5月3日、横浜で開催された「憲法集会」に本誌も販売ブースを出店した。初夏の日差しが溢れるなか、3万人が集結。最新号の憲法特集50冊は早々に完売し、読者の皆さんにもたくさん声をかけていただいた。立憲主義を未だに知らない首相はこの熱気をどう感じるだろうか。(町田明穂)