週刊金曜日 編集後記

1057号

 昨年2月28日号に続き第二弾となる特集「プロテストソング」。
 政治的思想・信条などに基づく体制(大勢)への抗議を意味する「プロテスト」も、この言葉に込める思いは一人ひとりの立ち位置(現場)によって異なること、多様であることを企画記事の取材・編集を通してあらためて感じた。
「ノラは家出してからどうなったか」----唐突だが、日頃から私はこのテーマを考えている。「プロテスト」(抗い)と表裏一体の命題としてあるのがこの問いだからだ。
 ノラはヘンリック・イプセン(ノルウェーの劇作家、1828〜1906年)の作品『人形の家』に登場する主人公だ。物語は紆余曲折を経て夫をみかぎり(厳密にはもっと精緻な話)、ノラが家を出る場面で幕を閉じる。この結末に「希望」を見出すのは容易だが、中国の作家である魯迅(1881年〜1936年)は疑問を投げ、自らの演題(1923年)に「ノラは〜どうなったか」とつけた。
 イプセンや「プロテストソング」が問うのは「この次あなたはどう動く?」ということだ。(内原英聡)

▼忘れられない言葉がある。震災の時、東北朝鮮初中級学校の校長だった尹鐘哲さんの慟哭だ。
「なんど心が折れそうになったか分かりません」。地震で校舎は全壊。尹さんは生徒の安全確保、炊き出しと東奔西走したが、宮城県は翌年度から補助金の打ち切り決定。理由は「県民感情」だった。 そんな時、尹さんの魂を揺さぶる出来事もあった。対立関係にある韓国の人々や民団(在日本大韓民国民団)が多大な支援を寄せてくれたのだ。「このことも記事にしてください」。3年前にお会いした時、尹さんそう懇願してきた。
 この夏、突然の訃報。享年54。先日、チェサ(祭祀)という朝鮮式法事にうかがうと、ご家族は温かく迎えてくれ、いろんなエピソードを聞かせてくれた。
 若い頃は米国文化のジーンズなぞはかないと豪語していたのに、晩年は愛着していたこと。二女が金髪にピアスをした時は腹の底から怒っていたのに、見慣れたか、三女の時は気に留める様子すらなかったこと。どこまでも人間くさい人だった。 (野中大樹)

▼参院本会議で戦争法案が採決されたその瞬間も、国会前に集まった人たちに悲壮感はなかった。少なくとも私や友人らに絶望感はなく、半分踊りながら「アベはヤメロ」「賛成議員は落選させよう」を叫び、民主主義の真っただ中にいる喜びすら感じた。国会の外に渦巻く民主主義を国会内にも実現するため、ここからが始まりだと、誰もが思っていたと思う。それに、体調を崩す人がでないよう水が配られたり、喉を労わるため(?)飴がまわってきたりするところが人間的で嬉しくなる。女子に食事づくりを担当させたというかつての学生運動のような性別役割もなく、強要もなく、無理せず、できることをやる。それがいい。だからきっとこの活動は続く。
 2001年の敗戦記念号の本欄で、<戦争を知らない世代が増えた現代だからこそ、この国の「平和」は本当にしっかりと根を張ったのか(略)今だけ咲き誇る切り花状態なのか、それを改めて考え直してみたい>と書いた。今は疑っていない。平和への思いが日本に根付いたことを。 (宮本有紀)

▼映画『私たちのハァハァ』を観た。福岡の女子高校生たちが、とあるバンドの渋谷でのライブに行こう!というロードムービー。しかも自転車で。おもしろかった。久しぶりにあっという間に思える映画を観たな、という感じだった。懐かしいというには自分には遠い記憶の年頃の話で、10代の記憶がまだ新鮮な世代の人たちの感想のようにはそれほど痛いという感情はわかなかったが、「バンド少女あるある」な感じで楽しめた。好きなものにあまりにも夢中な子たちのリアリティ。
 脚本が、以前観た劇団プレステージの『女戦』という舞台と同じ、舘そらみさんという方だった。この舞台も20代の女子のリアルな感じが面白かったが、こちらはちょっとちくちくした覚えがある。
 自分の子どもたちも大人になった時、懐かしく思えるような時代を過ごしていて、思い出を平和に語れるような時だといいなあと、ふと思ってしまった。 (佐藤恵)