週刊金曜日 編集後記

1221号

▼いまから100年前の1919年3月1日、日本の植民地支配に抗して朝鮮の民衆が独立運動を起こした。韓国ではこの日を「三一節」として盛大に祝う。19年という年は、朝鮮の歴史にとって非常に重要な意味を持つ、ということを今回改めて知った。まず、東京の留学生が2・8独立宣言書を発表し、3・1独立運動、4月11日の大韓民国臨時政府樹立へと続く。この一連の動きは「主権者は国民」という一本の線でつながっている。と、えらそうに書いているが、今号の特集の執筆者やインタビュイー(取材の受け手)から教えられたことだ。
 いま、日韓関係は非常に悪化している。こういう時だからこそ、100年前に朝鮮の独立を求めた人たちの声に耳を傾け、そこから何をくみ取るべきかを共に考えたい。そんな思いから特集を組んだ。今回、「3・1朝鮮独立運動100周年キャンペーン」による独立宣言の現代語訳も掲載した。その真意を、日本と朝鮮半島の人々が共有できるとき、現在の日韓、日朝関係は改善へと進むのではないかと思う。(文聖姫)

▼本誌前々号で、現在上映中の映画『盆唄』の中江裕司監督へのインタビュー記事を書いた。
 沖縄で暮らす監督が、東京に来て驚くのは電車内の光景だ。「顔にマスクした乗客が一様にスマートフォンを黙々といじっている。変だと思いませんか」。いわく、乗客どうしが世間話をするでもなく、ひたすらスマホばかり見ている光景は異様だ、というのだ。
 監督は「日本全体で見たら東京のほうが特殊」とも。私も通勤ラッシュにはウンザリなのに、その環境に慣れきっている。何かとてつもない衝撃を受けましたね。
 ところで3日付『神奈川新聞』の高校生の投書も衝撃的だった。
「学校の皆勤賞の存在理由を考えたことがあるだろうか。私はそこに、休むことを悪とする思想があるように感じる」(投書より)。投稿者は留学先のデンマークで、自分を労わることを学んだという。自分を大切にすることで余裕が生まれ、周りにも優しくなれるから自己中心的とも異なるそうだ。
 余裕をもって暮らせるデンマークがうらやましい。(斉藤円華)

▼日本でもベストセラーの韓国小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著)。小説後半、キム・ジヨン氏が退職した会社で盗撮が起き、その写真を男性社員がシェアしていたことが発覚。女性たちは謝罪と再発防止の約束、責任者の処罰を求めるが、男性社長は男性社員たちにも「家庭があり両親がいるのだから」と、事態を隠蔽しようとし、加害に加担した男性社員たちも自分が盗撮したわけではないのにと自己弁護する。
 デイズジャパンの発行人だった広河隆一氏による性暴力も同様だ。「大きな仕事をしてきたのだから」などと"功績"を持ち出し、擁護する動きが見られる。デイズジャパン自身、少なくとも複数回のパワハラを把握しつつ、広河氏を「絶対化」し続け、加害構造を放置し加担してきた。広河氏だけの問題に矮小化できない。こうした圧力構造も被害者を黙らせてきた。被害者が声を上げる中、隠蔽や圧力が再生産されるべきでない。
『82年生まれ、キム・ジヨン』がベストセラーとなった背景にも、黙らされてきた無数の被害者の怒りがあるように思う。(渡部睦美)

▼中学の頃「国語」教科書に載っていて、出典の書籍を読みたい、と思って忘れていた本を偶然、図書館で見つけた。ナチス政権下のドイツでの、主人公「ぼく」と友人のユダヤ人フリードリヒの交流を描く『あのころはフリードリヒがいた』(ハンス・ペーター・リヒター 岩波少年文庫、上田真而子訳)だ。教科書には「ベンチ」という一篇が掲載されていたが、全篇読むと当時は気付かなかった、差別に荷担したドイツ民衆自身の自己批判、という日本の教育に大きく欠ける主題に気付かされた。
 先日、外国籍の弁護士による野党議員への献金が政治資金規正法に抵触の恐れ、という報道があった。そもそも多様な背景をもつ外国籍者が一律に政治献金できないことを当然視してよいのか、問い直すべきではないのか。
「シュナイダーさん」という一篇でフリードリヒの父は公務員を辞めさせられる。公務員が辞めさせられるなんてどうして?と訝る「ぼく」の母に、フリードリヒの母は言う。「わたしたち、ユダヤ人ですもの!」。(原田成人)