1231号
2019年05月10日
▼本号掲載の記事「戦争の時代と夏目漱石」をお読みになって、それまでの漱石観がガラガラと崩れていった方もおられると思います(実は、私自身もその一人です)。今回の記事でご紹介できたのは、小森陽一さんの講義のごく一部で、『それから』『門』だけではなく、『三四郎』や『こころ』を含め、漱石の新聞小説はおしなべて「帝国主義戦争に勝利した後の社会」が舞台に設定されています。戦争に勝ち続け、戦勝金を資源に資本主義化を達成し、戦争で富み栄える社会の中で、何らかのかたちで戦勝の恩恵にあずかりながらも、主人公たちはそれぞれに苦悩を抱える......そのような「ねじれ」や歪みこそが、漱石の新聞小説の大きなモチーフなのだと思います。
漱石は49歳で亡くなっていますから、40代の若さで、そのような「ねじれた」新聞小説を書いていたわけです。それは間違いなく辛い作業だろうと想像します。小森さんは漱石を「引き受けて」これからを生きる、と最終講義で述べられました。昨年末から『金曜日』の編集に携わる私も、少しずつでも漱石を「引き受けて」いけたらと思います。ただ、漱石の「ジャム一瓶一気食い」(極度の甘味依存)は真似しませんけど。(植松青児)
▼新連載について石坂啓さんと打ち合わせしました。さすがにアイデアの塊。良い意味で読者の期待を裏切れるかも。ただ開始は6月中旬ぐらいからになりそうです。
「初めて老いった!?」の原画プレゼントにもたくさんの応募ありがとうございました。大型連休明けから順次、発送できる予定です。
新連載開始までなぜ間隔が空くかというと、石坂さんが水先案内人として「ピースボート」に乗船していたからです。その乗船体験を基にした石坂さんのトークイベント「うらピースボート~わるい話~」が5月14日午後7時半から東京・新宿ネイキッドロフトで開かれます。ゲストは、ロフト創始者、平野悠さんとロフトプロジェクト社長、加藤梅造さん。私も聞きに行く予定です。
連載では、「『愛媛新聞』と忖度」の掲載が遅れていることを申し訳なく思っております。取材は継続中。先日は愛媛マスコミ界のレジェンド、今井琉璃男さんが逢ってくださいました。1928年生まれ、91歳の言葉は重く響きました。
3月15日号の当欄でも書いたとおり、新聞業界全体に関係する話として、あなたの地域の新聞を思い浮かべながら読んでいただけると幸いです。(伊田浩之)
▼単行本や本誌のバックナンバーを保管している、倉庫会社の営業担当者M君が4月末に退職した。 2年前、弊社は固定費削減の一環で倉庫の移転を決意。数社から見積もりを取った。M君の会社とは本誌をリサイクルする古紙業者としての取引は続いていたが、遡ること12年前に倉庫としての取引を打ち切った経緯があり、再開する気はなかった。だが検討を重ねた末ここに決めた。最先端の設備でないことが身の丈にあっていたこと、提示された金額が極端な安値でなかったこと。何より彼が知ったかぶりをしない、信用できる人間だったことが決めてだった。
出版社にとって倉庫が果たす役割は大きい。商品を綺麗に保管することは当たり前。書店からの注文短冊の処理、取次店への出荷、常備や生協のセット組等々、これらがスムースに作動するから売上になる。ただそれでも事故は起こる。台風の影響で生協への期日までの納品が危なかったとき、担当者としてあらゆる手を尽くしてくれて間に合った。物流は出版の要、そしてそれは人で動いている。
今週からは転職した畑違いの会社に出社しているはず。送別会はできなかったけど、就職祝いで近況を聞いてみたい。(町田明穂)
▼いったいどうしたということでしょう? 最近のタピオカブーム。
台湾の有名店の相次ぐ日本進出が火をつけたと思われるこのブーム、東京都内だと新宿や渋谷といった繁華街には、必ずと言っていいほど何軒かのタピオカドリンク店ができていて、どこも長蛇の列です。さらにこれまでタピオカドリンクとはまったく無縁だったコーヒーチェーンやファストフードなども、こぞってタピオカドリンクを売り出しています。台湾の国民的飲料タピオカドリンクは、いつから日本でも国民的飲料になったのでしょうか。
タピオカ自体は昔からあるものです。が、老舗店「春水堂」のサイトによると、タピオカをミルクティーと合わせ現代的な飲みものにしたのは同店なのだとか。春水堂は1983年開業なので、まだまだ歴史の浅い飲みものではありますが、すごい勢いで世界制覇(?)しつつありますね(ウィキペディアには台南の喫茶店発祥説もあり)。
以前、この欄で書いた神保町初のタピオカドリンク店は昨年閉店、今は新興のお店ができ、人気です。列が落ち着いた頃に飲んでみようと思います。(渡辺妙子)