週刊金曜日 編集後記

1318号

▼「五輪中止」をテーマに特集を組んだ。コロナ禍、世論調査では8割が開催に否定的だ。しかし、日本政府やIOCは、民意を無視して、開催に向け邁進している。
 その理由を本間龍、鈴木直文の両氏は、「お金・利権」と解く。アスリートファーストであるべきスポーツが、自民党や大資本の金儲けの手段になっている。玉川徹氏は情報番組で東京五輪を、「自民党オリンピック」と揶揄した。
 しかしその構造と不正義を大マスコミは質そうとはしない。
 なぜなら主要な報道機関が揃って五輪とスポンサー契約を結んでいるからだ。『読売新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『日経新聞』『産経新聞』の全国紙に『北海道新聞』がそれに続く。これは悪魔の契約にほかならない。莫大なスポンサー費を払い、見返りを得ることで、忖度が働き、公正公平な報道ができなくなる。現にこれだけ多くの問題を抱える東京五輪に対し、各紙「中止論」を掲げることはない。「自民党オリンピック」に完全に与してしまっている。
 権力の暴走を監視するのがジャーナリズムの務めであることを忘れてはならない。(尹史承)

▼東京の新型コロナウイルスの感染者数は下げ止まりの傾向を見せ始めているが、余談を許さない状況であることに変わりはない。これはもう「新しい日常」なのだ。
 確かに電車の乗客は多少いつもより少ない気はするが、週末の午後、近場の商店街はフツウに混んでいたし、飲み屋街も自粛のため休んでいる店もあるが、多くの店が新型コロナウイルスの対策をしながら営業をし、たくさんの人たちが(リスクを引き受けながら)楽しそうに過ごしていた。都立の大きな公園でも、多数のサンシェード(日除けのテント的なもの)を目撃した。"自粛疲れ"はもう限界にきているのかもしれない。
 コロナ禍という「新しい日常」の中では、ほうっておくと、暗いところにばかり眼がいくし、そのほうが、ちゃんとしてるという気にもなりやすいけど、人が生きていく上で、どこかええ加減さも必要なのかな、とも思う。
 先日、医療従事者を対象にした新型コロナウイルスのワクチンの接種が全国の医療機関で始まった。「あの頃、みんなマスクをしていたね」と懐かしく語り合える日はくるのだろうか。(本田政昭)

▼本誌が刷り上がったら、真っ先に読むのが「読者会から」だ。各地の読者会情報がわかることもあるが、本誌に対する温かくも辛辣な意見がためになるからだ。編集を担当したり、書いたりした記事だと余計気になる。褒められるとうれしいが、批判されるとやはり落ち込む。でも逆に、「なぜこの企画はダメ出しされたのか」と、反省するきっかけを与えてくれる。
 2月12日号の「読者会から」欄には、「読者会・さいたま・日曜」の次のような投稿が掲載されていた。「『安田菜津紀インタビュー』お母さんに興味を抱いた。脳内補完を強いられ読みにくいインタビューだった」。安田さんの母は、月に300冊の絵本を娘に読み聞かせる人だった。読者が興味を持ってくださったのはうれしい。しかし、「読みにくい」とのご指摘には反省しきりだ。いま一度読み返すと、すんなり読めない部分がある。私は、取材の前に当然ながら安田さんについていろいろリサーチしたし、私自身が在日韓国人なので、彼女の言うことがよくわかる。しかし、予備知識のない人に届く文章だったか? 今後は肝に銘じていきたい。(文聖姫)

▼「SDGs」(持続可能な開発目標)に触れた記事を担当した際、原稿が環境問題にばかり焦点を当てていたことをスルーして、デスクから「『SDGs』には、『ジェンダー平等を実現しよう』という目標もあることを忘れないで」と注意を促されたことがある。単に情報として知っていることと、生きた認識として身につけていることとの間には、決定的な落差があることを改めて教えられ、反省した。
 森喜朗五輪組織委員会会長(当時)の蔑視発言で改めて露呈したこの国の女性差別は、「失言」のレベルではなく構造的なもの。批判するなら自分自身はもちろん、自分の所属する組織や職場も振り返らなければ欺瞞になるだろう。
『週刊金曜日』も例外ではない。社員は男女ほぼ半々にもかかわらず、初めての女性の編集長は、創刊から23年も経った2016年11月。およそ四半世紀を要した。その間、男性編集長に比して経験も実力もひけをとらない女性は何人もいたと思うが......。現在、デスクは全員女性になった。だが会議などでは男性が声を荒げる場面も目につく。自身も含め内実はまだこれからか。(山村清二)