週刊金曜日 編集後記

1397号

▼ベルウッド・レコードを立ち上げた三浦光紀さん(78歳)には、正式なインタビューの前後に計5回も飲食をともにしながらじっくりとお話をうかがいました。お忙しいなか、時間を割いていただいたことに感謝しかありません。

 三浦さんはいつも朗らかで、当時の秘話を含めて、ざっくばらんに語ってくれました。印象的なのは、かかわった人の悪口が出てこないことです。「悲観は感情だが、楽観は意志だ」とも言います。

「全日本フォークジャンボリー」録音のために会社機材を無断で持ち出したことは有名ですが、「帰ってきて始末書書けばいいや」とのんきに考えていたそうです。一流のミュージシャンと出逢えて本当に運が良かったと、三浦さんは繰り返しますが、真贋を見抜く眼力と、ミュージシャンのことを第一に考える一貫した姿勢が絶大な信頼を得た秘密でしょう。

 いまも三浦さんと仕事をしたいとの熱望が多いそうで、20~30代の人たちとエンタメ発信の新ビジネスを立ち上げる挑戦姿勢には頭が下がります。経営者はかくあるべき、と感じます。(伊田浩之)

▼写真企画「介護従事者の肖像」に掲載したポートレートを初めて見たときの(静かな)衝撃は今でもはっきりと覚えている。写真展「KAiGO PRiDE@SETAGAYA 私たちは、世田谷区で働く、現役の介護職です。」は、今年の5月、東京・世田谷区立保健医療福祉総合プラザ内「ふれあいカフェ うめとぴあ」で開催された。お茶を飲む人、食事をする人、話をする人......。展示に気がついて写真とそこに添えられたコメントを丁寧に読む人もいた。僕もその一人で写真を見ながら心がざわざわした。

 この写真を「世田谷区の人たちだけでなく、もっと多くの人に見てほしい」と思い、その日のうちに主催者の世田谷区福祉人材育成・研修センターの方に挨拶をし、後日、ミーティングを設定、本誌に掲載する許可を得るための交渉をした。多くの人の目に触れることで、たとえば地方の町での写真展開催など、この活動が知られ、日本中の多くの介護職の方々へのリスペクトにつながればうれしい。生きていく上で大切なのはその人の「人間力」だと思う。その力を写し込むポートレートの凄みをあらためて実感した。(本田政昭)

▼安倍晋三元首相の国葬問題を考え、取材するうえで大変参考になったのは前田修輔氏の論文「戦後日本の公葬――国葬の変容を中心として――」だった。

 その論文を読みながら改めて感じたのは、岸田文雄政権による「野党との対話の不在」である。吉田茂元首相の国葬に際しては次のような動きがあった。前田氏の論文を引用する。「吉田の死後、政府・自民党は各党に国葬の意向を打診しており、福田幹事長によると、社会党・公明党は異議無しとの態度であり、民社党は党機関に諮るが非公式には同意したという。一方、共産党は反対の旨を一〇月二四日に亀岡高夫官房副長官に申し入れている。」

 社会党は後に態度を変え、「今回の国葬は前例とせず、今後の取り扱いは衆議院議院運営委員会で検討する」ことなどを主張した。いずれにせよ、政権側は事前に野党に「打診」はしたのである。

 野党の意向など眼中になかった岸田政権の姿勢の理由をここに書くには紙幅が足りない。ただ、一つ言うならば、これもまた安倍政治のもたらした負の遺産ではなかったか。(佐藤和雄)

▼先週号で、湾岸戦争時に故・アントニオ猪木・元参議院議員とテヘランからバグダッドまで車で疾走し、1週間近く寝食をともにしたことを書いた。パレスチナやイラクなどのアラブ諸国には何度も取材に出掛けてきた私も、ペルシャはこの時が初めて。日本と同じ水稲を耕作し、田植えも盛んでコメが旨いことも初めて知った。猪木氏は喜び、日本から持参した醤油で卵かけご飯を楽しんでいた。

 もう一つ、テヘランで驚いたことは、先行する「イライラ戦争」でイラクとは対立していたハズのイラン国内に、軍用機も含めて多くのイラク航空機が避難していたこと。「反米」意識の絆の強さを実感した。テヘランからイラク国境までの検問所の兵士始め官民の多くの人々が、「バグダッドを目指す平和使節ダアー」と大声をあげるだけで全面的に協力して、道を通してくれたりした。

 国境を越えてイラク国内に入るとすぐに空襲が始まった。地雷もある。国境の町バフタランの州警察が、何の事前連絡もないのにパトカーで先導してくれた。皆が平和に飢えていた。(本田雅和)