週刊金曜日 編集後記

1463号

▼選択的夫婦別姓を求めて第1次訴訟が提起されたのは2011年。当時の原告団長だった塚本協子さんは15年の最高裁判決で主張が退けられた時、周囲を気遣って笑みをうかべるものの、落胆を隠せず時折目を潤ませていた。あの表情が忘れられない。19年に亡くなられたが、最後の年賀状でも別姓実現を願っておられた。

 第2次訴訟の原告の一人、広島で提訴した恩地いづみさんは、21年に最高裁の多数意見が合憲と判断した時も「最終目標は勝訴ではなく法改正。そこを目指し諦めずに進んでいく」と前向きな姿勢を見せた。「最初は自分が法律婚をしたくて裁判を始めたが、今は将来の世代のために法を変えたいと思っている」と述べた原告もいる。

 自分のためだけでなく、社会のため、若い世代のためにと声を上げた方たちに続き、第3次訴訟が始まる。今回の原告だけでなく、1次と2次の原告、そして同様に法改正を望む人々の思いが込められた訴訟だ。「三度目の正直」を願うが、国会が動いて法改正し、裁判をしなくてよくなることが最も望ましい。(宮本有紀)

▼2015年から8年かけ沖縄・南西諸島をめぐり、軍事要塞化の取材を続けてきた三上智恵さんの最新ドキュメンタリー映画『戦雲』が3月16日、東京・ポレポレ東中野で公開されます(全国順次公開。インタビューは52ページ)。

 取材素材をつなげ、前段として公開したスピンオフ作品『沖縄、再び戦場へ(仮)』(45分)が注目を集めた時のインタビューは本誌23年6月23日号に掲載。三上さんが「まったく違う作品になります」と話していたとおり、奥行きの深い作品に仕上がっています。

 冒頭、石垣島の山里節子さんが歌う八重山民謡から引き込まれました。祭りや伝統行事、人々の生活も丹念に描かれます。三上さんはTBSラジオ「荻上チキ・Session」(2月29日)で「辛いシーンもありますが、楽しんでもらえるシーンをすごく増やすように頑張ったんですね。そうじゃないと、何が奪われようとしているかがわからない」。予告編では「共に目撃者になり、今という歴史を背負う当事者になってほしい」としています。お薦めします。(伊田浩之)

▼本多勝一の足跡を辿ったベトナム取材旅行から帰国し、早くも半年。連載も終章に近づき、本誌創刊時の志に今一度立ち返るべく、当時の本多編集長が部員に呼びかけた文書などを読み直している。権力や権威に対する批判の自由の確保はもちろんのこと、「右翼」「極左」などのラベリングが取材の眼を曇らせることを本多は諫めている。ハマスを「過激派」、侵略に武装で抵抗する人々を「テロリスト」と呼ぶのも同じ。植民地支配への蜂起を「テロ」と非難する欧米の世論では彼ら主導の空爆や虐殺は「正義の戦争」となる。

 ベトナムは共産党の一党独裁で「表現の自由」がない、日本は多党制で政府批判も自由だとの俗論もあるが、本多も私も朝日新聞記者時代、表現の不自由に苦しんできた。その象徴が大新聞における天皇一族に対する特別敬語の強制だ。天皇制批判を貫く言論に徹すれば「極左」とレッテルを貼られ、時に「右翼」に命を狙われる。同僚を殺されて以来、そんな「グロテスクな日常」を生きていることは自覚している。(本田雅和)

▼世界的指揮者の小澤征爾さんが2月6日に亡くなった。私が最後に新聞記者時代を過ごした長野県松本市では、小澤さんが総監督を務める音楽の祭典「セイジ・オザワ松本フェスティバル」が毎年開かれてきた。オーケストラのほか、総監督の「松本入り」、歓迎パーティ、「子どものための音楽会」などを取材する機会に恵まれた。

「世界のオザワ」とたたえられるが、信州の人たちには気さくだった。パーティなどで「僕は野球が好き。悪いニュースは(夏の甲子園に出場した)松商学園が負けたこと」「(松本で利用した)そば屋がなくなって残念。別の店を探さないといけない」と場を和ませた。

 2016年の公演終了後、「さよならパーティ」で小澤さんは地元のボランティアやスタッフ、行政関係者らに向けて感謝の言葉を述べた。その途中、「長野県の人、松本の人は......人柄が......素晴らしい」と涙で声を詰まらせた。

 そんな小澤さんを多くの人が慕い、フェスティバルを一緒に盛り上げてきた。その思い出は信州の宝として残り続ける。(小川直樹)